例年より早く入梅したという。
お気に入りの傘を持って、自分の部屋を出る。
久しぶりに彼に会える嬉しさで胸が一杯になる。
雨さえも愛しいものに変わっていく。
逸る心を抑えながら、リュウの部屋のチャイムを鳴らした。
一人のはずの彼の部屋にはリュウの他に二人の男がいた。
「リュウ、いいじゃん、この子」
茶髪の男がにやにやと笑い、私の全身を嘗め回すような視線を送ってくる。
あっという間に汗とアルコールと煙草の匂いがするこの茶髪の男の腕にとらわれてしまった。
必死にその鳥肌のたつような拘束から逃れようと身体をねじり、リュウに助けを求めた。
こんな冗談はやめて欲しかった。
「がっつくな」
いつもの優しいリュウではなかった。
豹変している。
それともこちらが本当の姿なのだろうか。
リュウの笑いを帯びたからかうような声に絶望した。
「ヒグチ、誕生日なんだろう、祝ってやるよ。俺たち三人で」
床に座ってテレビを見ていたキャップを深めにかぶっていた男が立ち上がり、疲れたような声を出す。
「俺、興味ない、帰るな、リュウ」、と部屋を出て行ったしまった。
転がる酒のビン、定位置をもたない雑貨が収まりきらずに床に置かれている。
リュウと茶髪という二人の男に押し倒された先には振動で崩れさって乱雑に散らばったCDが山になっていた。
リュウに乱暴に服を切り裂くように脱がされ、茶髪の男に髪をつかまれて頬を叩かれたのだとわかった時、私はすべての抵抗をやめていた。
欲望だけの暴力行為を強いられる。
そこにはひとかけらの愛もなかった。
食べ残しのカップラーメンのつゆの香りと男たちの獣のような生生しい匂いと荒々しい呼吸と吐き出される煙草の煙。
大学でも人気者のリュウに好きだと言われて舞い上がり、優しくされてすぐに彼にすべてを許した。
それの何が間違っていたのだろうか。
★★
「ヒグチ、飲みにいかないか?」
隣りの同僚ナツメがネクタイを緩め、グラスを傾ける動作をする。
「無理。まだ終わらない」
「・・・働きすぎ。ヒグチはがんばりすぎ。人がいやがってやらない仕事まで引き受けて。明日やろうぜ・・・ホラ、行くぞ」
一年ほど前にナツメが私のいる課に異動してきて、私の隣の席になって以来、うるさいくらい何かと世話をやいてくる。
ありがたいことではあるが、どうしていいのかわからない。
優しくされたり親切にされるということに慣れていないのだ。
社を出るとどんよりとした空気にむかえられる。
しとしとというよりじとじととした雨がはりつくようで不愉快だ。
この季節が嫌いになったのはいつからだろうか。
明確なこたえを思い出しそうになって、軽い吐き気を覚えていた。
いいかげん、忘れるという作業をするべきなのだ。
人の記憶もリセットできたらいいのにと思う。
ぐずぐずといつまでもまとわりつく遠く忌まわしいあの日を葬ることができたらいい。
「乾杯・・」
どうしてこんなに目を細めて、愛おしい顔をして、私を見るのだろう。
どんな対応をしていいものなのか、私は、とまどい俯いてしまう。
ナツメに好かれているのかもしれないと錯覚してしまいそうになる。
仕事でも頼りになる男だった。
こうやって、時々、洒落た店につれていってくれたりもする。
でも好意を寄せられるたびに、リュウとのことを思い出してしまうと、口の中がざらざらと砂まじりになったような気持ちになる。
じゃりじゃりと私の心を蝕むのである。
恋はもうできないのかもしれない。
ビールがワインになった頃、ヒグチから、あらためて、グラスどうしを重ねられた。
「もう過ぎたけど、誕生日おめでとう」
「えっ?・・・」
「モリが言ってた。ヒグチ先輩はマリリンモンローと同じ日に生まれたって」
モリとはナツメファンの古いことから最新情報まで雑学大好き明るく可愛い後輩女性である。
店を出ると雨はやんでいた。
隠れ家のような店のまわりには人はいなかった。
少し肌寒くぶるっと身体を震わせていたら、ナツメが優しく抱きしめてきた。
「何の冗談?」
私は自分の腕を突っ張るようにしてナツメの胸を押した。
「・・・逃げるなよ。寒かったらあっためてやる」
さらに強くしめつけてくる。
怖くない、嫌ではない、この手は私を苛むものではないとそう思った。
「ヒグチ、俺とつきあわないか?」
乾いた心が潤んでいく。
枯れたはずの冷めた心があたたかいもので満たされていく。
こんなふうに自然に身体を預けている。
くすぐったくて、甘酸っぱい。
手を伸ばしたら手に入るのだろうか。
でも、また、裏切られ失うのかと思うと、怖かった。
私は首を横にふり続けた。
「だったら、なぜ泣く?」
ナツメの慈愛に満ちたような声にまた泣いていた。
「無理だから。私はもう誰も好きにならない」
「・・・だったら俺のことが好きになるように・・がんばるよ」
泣き笑いになっていた。
★★
社内食堂でナツメが隣りのモリと談笑している。
不思議と嫉妬心はわいてこなかった。
ナツメが楽しそうに笑っているのをみていたいとそう思った。
ナツメが笑うと私も嬉しくなるのだ。
ナツメをこんなふうにさせるモリに感謝したいくらいだった。
過去ばかりにとらわれている暗い私よりモリのほうがお似合いである。
「先輩、どうしたんですか、ふふふって顔してますよ。なにかいいことありました?」
私は答えるかわりに笑って、きゅうりのおしんこをモリの口にいれてやった。
タクシーをひろえそうな場所まで歩くことにした。
相変わらず残業ばかりになってしまう自分の要領の悪い仕事ぶりに嘆きつつも、必ず、ナツメも手伝いと称して一緒に残り、そのあと食事に行くというパターンを嬉しく思っている自分もいた。
「ヒグチ、明日休みだし、どこかでかけないか?」
「・・モリ、誘ってあげなよ。喜ぶとおもうよ」
「モリ?俺はヒグチのこと本気で口説いてるつもりだけど?」
ナツメは珍しく少し怒ったような口調になった。
「好きだった男がそう言ってた。本気だから、好きだから、愛してるから、ずっとそばにいてくれって。全部嘘だった。・・・信じるのはもう怖い。期待するのももう嫌・・恋なんてしなければ、傷つくこともない」
止まらない口から気持ちとは裏腹な言葉が飛び出してくる。
本当は、ナツメなら、ナツメとなら、恋をするのも、傷つけられるのも苦しくないのかもしれない。
「・・・俺は、あいつじゃない。リュウとは違う」
私は驚いてナツメを見上げた。
その顔には苦渋が浮かび、「あの時、あいつらのこと・・なにがなんでもやめさせるべきだった。俺はあそこから逃げた。今でも後悔してる。・・でも、おもいがけなく、ヒグチと再会して、無理やり笑ってそれでも頑張ってるお前みてたら、可愛くて、そばにいたいと思うようになって、どうしょうもなく惹かれていった」
言葉は出てこなかった。
ナツメから静かに離れた。
「・・そう、あの時の人なんだ。だったらなおさら、私なんかやめたほうがいい。さんざん遊ばれて、どこにも綺麗なものなんかない。モリみたいに無垢な心でナツメのこと愛せない。・・痛みだけが残り、愛する心を失った・・・」
「やめろ、もう言うな・・」
触れるだけのキスをされ、抱きしめられる。
泣き崩れる私の背中を労わるようにさすってくれるこの手をたまらなく欲しいと思った。
この手を取っていいのだろうか。
その資格が私にはあるのだろうか。
→
大丈夫、信じて、ついていこう。
愛したいから愛する。
愛されたくて愛する。
前者のほうが幸せかもしれない。
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