「嫌なら逃げればいい」


ゾッとするような冷たい声に囚われる。


「逃げてもまた捕まえられる」


喉の奥で笑い、私の腰をまたいで馬乗りになる。


先輩の熱い唇が私の耳を柔らかく噛み、喉を通り、震える鎖骨をたどり、息づく胸元を這い回る。


背中に流れるびくつく感覚に、思わず声をもらしそうになり、きつく唇をかみしめる。


この行為に意味などない、どこにも愛はないのである。


何故私を弄ぶのかと、問うてみても、先輩は一度も答えることはなかった。


気まぐれに呼び出され、彼の玩具として扱われる。


入学後、葉桜の季節に、学校の裏庭に呼び出され、逃げないように力づくで押さえ込まれ、恐怖といい知れぬ快楽を送り込まれた。


自分の何が彼をそのような狂気にかりたてたのか、いまとなってはもうわからない。


お互い社会人になった今でも、会社同士が近いせいか、冷酷な指令はちょくちょくあった。


逆らうことはとっくにあきらめた。


私は飼いならされたペットのように彼に従うのである。


先輩、後輩、どこにでもある主従関係である。


終わりのない、不毛な関係は続く。


溺れるわけにはいかない。


繰り返し襲ってくる甘い疼きに耐えながら、ただひたすら沈黙を守り通す。


「ミヒロ・・・」


余裕のない声で名を呼ばれ、せりあがる羞恥から逃げ、わきあがる切ない困惑を隠すようにシーツに顔をこすりつけた。


★★


目の奥に未知なる生命体がひそんでいるかもしれないとくだらない妄想をしてしまうくらい疲れていた。


このところ、残業続きなのである。


隣りの机でカタカタとキーボードを叩いている同僚のマヤマが奏でる音も、もはや、リズミカルとはいえないものになっていた。


「ノセ、これくらいにして、飯いかない?ビール飲みてえ」

「そうだね。行こっか」


ホッケの身を綺麗にほぐし、サラダを取り分けてくれたり、マヤマはいつもまめである。


「最近釣りにはまってる。さかなが恋人だな」


「海に行くの?いいなあ。久しぶりに水平線みたいなあ。・・・最近、自分のあまりの小ささに愕然とするっていうか、所詮、私程度なんて企業の歯車だなってつくづく思うのよね」


「歯車でもさ、いいじゃん。俺たちがやってることは無駄じゃないと思うぜ・・・」


真面目なだけで変化を好まない現状維持の臆病な私は、気配り上手で冒険家で多才なマヤマといると劣等感にさいなまれるのであるが、一緒にいるとおちつく。


先輩といるときの、あの独特な圧倒的な恐怖を感じることはもちろんなかった。


「優等生だもんな、ノセは」


「何の才能もないから、真面目にやってるだけ。・・・妹がいるんだけど、まじめじゃないのに、成績は上位、センスもいいし、耳までよくて音楽とかすごいできるわけ。おねえちゃんはせめて勉強くらいできないとねって親に言われ続けてた」


誰のための勉強なのか、塾通いの毎日は窮屈だった。


妹はピアノや絵画、スポーツ、やりたいことをやってまさに青春時代を満喫していた。




酒に酔いほてった身体をさますようにマヤマと歩道を歩いていると、道路の反対側の歩道を先輩が歩いているのが見えた。


何事にも動じないような冴え冴えとした相貌をまっすぐに向けていた。

声をかけようとしたが、先輩は私に気が付いた。


一瞬目が合ったが、軽蔑したような眼差しを送られ、私を無視するように足早に行ってしまった。


無視されることなど慣れているはずなのに、傷ついている自分がいた。


先輩の遠ざかっていく後ろ姿を、震える足で大地を踏みしめ、見送った。


「ノセ?知り合い?いいのか、おいかけなくて」


「うん、大丈夫。大学のサークルの先輩」


自分で言っておいて、呼吸が苦しくなっている。


事実はそれだけのつながりしかないのである。


どんなに濃密な時間を過ごしていたとしても、先輩は私を見ようとはしない。



マヤマと別れ、最終の満員電車に揺られる。


マナーモードの携帯がバックの中でブウブウと悲鳴を上げている。


【これから、部屋に来い】


ただそれだけの文字に鎖をつけられたようになる。


逃げ出せばいいのだ。


別に脅迫されているわけではない。


明日も会社がある身なのである。


このメールを無視して、自宅に帰り、気持ちの良い熱めのシャワーを浴びて、ふんわりとしててざわりのいいシーツが敷かれたベッドへ飛び込んで、そのまま、寝てしまえばいい。


靴先は私の意志に反するように通いなれた先輩のマンションへと向かう。


イレギュラーな呼び出しに少し戸惑う。


お気に入りの服と少しだけ開放的な気分にしてくれるパフュームをつけてくればよかったとか、何の変哲もないシンプルな下着をつけていたなと思い、それこそどうでもいいような自分の思考にあきれていた。


先輩にとってはストレス解消程度のこの行為に、なんの価値もないのだろう。


部屋に上がると、腕を乱暴に引っ張られ、強引に先輩のほうを向かされ、噛み付くようなキスをされた。


「シャワー浴びさせてください。お酒くさいかも・・・」

「いい、そのままで」



痺れる、捩れる、崩壊しそうだ。


この熱はどうしたら封じ込めることができるのだろう。


シーツをきつくつかみ、背を丸め、目を閉じ、唇をかむ。


氷のような口調は今も昔も変わらないのに、どんな時も、先輩の指も手も瞳もこの唇も酷く優しい。




簡単な朝食を作り、ベッドの脇にしゃがんでまだ目覚めない端整な寝顔を飽きるほど眺める。


「いつまでみてる?」


ぱちりと目が開かれた。


「・・・起こしちゃいましたか。まだ朝の五時です」



「・・・きのうの奴とつきあってるのか?」


唐突な質問に戸惑うが、あわてて首を横にふってはみたが、すこしでも私に関心を持って欲しくて嘘をついた。


「・・・つきあうかもしれません」


勝手なことをいってごめんとマヤマに心の中で謝った。


先輩はもう興味はないという風に目を閉じた。


帰りますと小声でつぶやいたが、これまたいつものように反応はない。




それきり先輩からの誘いはなくなった。


★★


海の蒼さにとけてしまいそうであった。


慣れない長い釣竿に悪戦苦闘である。


マヤマは不器用の化身のような私をからかい、穏やかに笑う。


容赦ない直射日光に照らされてじりじりと肌が焼ける感触にすこしだけ怯えたけれど、どんな小さな魚を釣り上げても手を叩いて喜んでいるマヤマをみていたら、日焼けなどもうどうでもよくなっていた。



先輩とはカーテンでさえぎられた密室で獣のような営みを続けるだけだった。


私の肌に転々と散りばめられていた先輩の偽りの熱さもいつしか消えていた。




磯と汗の匂いとマヤマのフレグランスに、ふいにすっぽりと包みこまれていた。


「ノセ、俺のものになれよ。俺ならそんな顔させない」


「顔?ひどい?」


私はやんわりとマヤマの胸を押し、彼のぬくもりから離れた。


「ああ、窮屈で死にそうな顔してる。彼氏にでも捨てられたか?前はもっとのびのびとしていたぞ」


窮屈?先輩にしばられていたのではなかったか。


支配を解かれ自由になったこの身を喜ぶべきなのではなかったのか。


自由とは何だ?


私はたどり着いた結論に愕然としていた。


両親の期待にこたえることができない苛立ちを常に感じていた。


やりたくもない勉強を強要され、退屈で窮屈な日々をもてあましていたのだ。


導かれるように、引き寄せられるように、己のすべてを解き放てる居場所が欲しくて、先輩のところに通っていたのではなかったか。


先輩が強姦したのだと自分に言い聞かせて、さまざまなことを先輩のせいにして、現実と向き合うことから逃げ出していたのだ。


先輩は私を受け入れ、疲れた時は反抗したり不貞腐れてもいいのだと、その胸で教えてくれていたのかもしれない。


都合よく先輩を利用していたのは、私のほうだった。


抱かれるたびに、次第に先輩に惹かれていく自分を認めるのが怖かったのかもしれない。


ミヒロ、と呼ぶあの声に含まれる真実を信じていけばよかったのかもしれない。




さあ、ぐずぐずしていないで、今度はこちらから追いかけよう。

それにしても無口な恋愛は悲劇を生むことが多いかもしれない。

雄弁に自分の気持ちを照れずに語るべきである。

そのほうがいい。


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