昨日の記事にコメントを書いて下さった

お返事を書いていまして・・・

 

ハッハッハ~~~ニヤニヤ

思い出してしまった~~ 昔のことを・・・

 

時節柄・・・ウクライナの戦場と化した街のことを度々目にしますが

歳がいくと~~~自分の体験と重なってしまって・・・

昔々の戦時下の状況と、気持ちとしては重なります。

 

 

わたしが、小学校に入学したのが・・・たしか・・・

昭和18年だったと思う。(通知簿あるのだけど・・)

 

流石に・・・入学式等の事は覚えていないですが

終戦の年の(昭和20年)の事は、覚えていますねぇ~~

 

学校で空襲警報のサイレンが鳴ると・・・

運動場に作られた防空壕に一斉に入ります。

 

それで・・・敵機が去っていくと警戒警報のサイレンが鳴って

一斉に自宅に帰るよう指示されます。

 

但し・・・県道を集団で帰ると、いつ機関銃で攻撃されるか分からないので

田圃道を通って、すごく遠回りして帰っていました。

 

 

もう~サイレンは鳴っていないので・・・帰りは遊びです。

土手でタンポポの花を摘んだり・・・小川で水遊びをしたり・・

 

 

 

実家のお墓は、一番高い所のお寺にあったので、お墓参りの度に

村を見下ろしながら・・・何故か?警戒警報で田圃の畔を通って帰った

風景を思い出していました。

 

今も、小学校は赤い屋根だったか?鉄筋に建て替えたか定かではありません。

小学校の赤い屋根に太陽が当たってメラメラと陽炎が揺らめいたいたような・・・

 

お墓参りと、空襲警報のサイレンと赤い小学校の屋根の陽炎が

わたしの中では・・・懐かしい~~風景の記憶として思い出されるのです。

 

 

今のウクライナは、

もっと酷い戦場と化して、わたしの脳裏の戦争とは違うでしょうが・・・

 

 

まぁ~戦争になると言うので、神戸市内から父の実家の田舎に

引っ越していましたから大きな、空襲に遭う事もなかったですが・・

 

空襲警報のサイレンが鳴るたびに、母は座敷の真ん中に机とかを立てて

お布団を被せて、この中に入っているように・・・と言っていました。

 

考えると・・・

爆弾が一つ命中すると、そんな砦など、何の役にも立たないのですが・・

母の、子ども達を守りたい一心から発想した砦だったのでしょう。

 

 

終戦の日のことも覚えていますねぇ~~

 

村の氏神様として天神さんがありました。

7月24日25日は、天神さんに行って遊びました。

 

それが・・・どうして8月15日に天神さんに行ったか?定かでないのですが

母が涙をポロポロ流しながら、ボイルの一張羅の着物を着せてくれて

『もう~この着物も着ることがないと思う』と言ってたような・・・

 

母は、雑音ばかりのラジオで終戦の玉音を聞いたばかりだったのでしょう~~

 

 

その後の、食べる物のなかった事や、いろいろ

子どもの頃の事を思い出しますが・・・

これは・・・決して、歳がいったから昔のことを思い出す~~では

ない!と思いたい。

 

むしろ・・・・

今だから・・・・当時の情景を色々思い出せて・・・指も動くのだわ~~

 

 

わたしが小学生の頃、ボスの子がいて、わたし虐められていました。

でも、今は、その事は書きたくないし・・・思い出したくもない気づき