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シルクロードと云えば「大唐帝国」(AD618~907年)

そのころの中国では(300年もあるけど)それまでのような「金持ち貴族や軍閥のヒャッハー国家でいい生活!」が基本だった中国の富が「クッソ貧乏!1日1食!納税額は地主&領主の気分次第!死んだら死骸放置!」のしったぱ階層にまで(ちょびっとではあるが)広がり、字を読める人も増えてきて(当時のベストセラーは「お経」ww)明るい未来が見え始めた・・・気がしてきた時代。

 

シルクロードの命名者はドイツ人のフェルディナンド・フォン・リヒトフォーヘンで、1877年の著作内で発表した(因みに「リアス式海岸」という言葉も彼が初出)。彼に師事したスウェン・ヘディン(1865~1952年)というヒトラー支持者のスウェーデン人(私が子供のころは「スウェン・ヘディン」表記だったが、最近は「スヴェン・アンダシュ・ヘディン」らしい)がその後かの地を5回探検して、シルクロードという呼び方が定着した(さまよえる湖を発見した人でもある)。

 

さて、シルクロードは長安辺りから西に約6500㎞(2つのルートがあるけど)ウイグル自治区、モンゴル、タリム盆地(敦煌とか楼蘭があるところは有名)、カザフスタンとかタジキスタンとか超えてパミール高原過ぎて、最終地はシリアのアンチオキアである。

途中はどこも「砂漠・山脈・大草原」で、ジンギスカンの騎馬兵団でも最低2~3ヵ月かかる旅路で、イブン・バトゥーダ(1304~1377年。モロッコ生まれのイスラム教徒なのに、パレスチナ、シリア、クリミヤ、黒海、インダス、ペルシャ、メッカ、紅海、セイロン島、モルジブ諸島、スマトラ、などと旅をしてインド皇帝に気に入られ中国への大使として派遣され広東から北京へ行って帰ってきた。モンゴル帝国でモンゴルの皇帝にも気に入られ帰りは西アフリカのマリ、グラナダへ行った)が、その著作「大旅行記」・・・本当は『諸都市の新奇な様式と旅の合間の脅威に関する観察者たちへの贈り物の話し』という長いタイトルだが・・・の中で「地中海から北京までは、ラクダに乗って1年旅する距離でーす」と書いている。

 

さて長くなった。

いつもの事ですな。

 

シルクロード途中に「パミール高原」があり、標高が高い(言われなくても判る)

ここから先にシュグニー(英語読み。タジキスタンのシュグノン)地方があって、中国人がシルクロード開拓のためにそこから西に行くのに(地図だと南に向かうが、当時の人は西に進んでいると思った)ダーコット峠(ダルコット、パキスタン北部とアフガニスタンの国境編)を通るのだが、ここは万年雪の氷河地帯で・・・タイトルに戻るけど

「西暦747年に、高仙芝と3000名の兵士が通った場所」で

『最も高緯度で軍隊が(正規軍。ゲリラ部隊は除く)戦闘をした場所』なのだな。

 

標高4703m

 

しかも断崖絶壁を削って造った道が20㎞以上続くとんでもない場所。

高山病にならなかったのかな?

食事どうしたんだろ?

馬やラクダはどうしたんだろう?

(因みにロシア帝国時代にロシア人らが探検した時は、ヤクという毛の長い牛を荷物持ちに連れて行ったが嫌がって登ろうとしなかったため、人間が各々約50㎏ある荷物を担いで進んだそうである。)

なお氷河もありクソ寒いので、6~8月の間しか人間は活動ができないとんでもない土地らしい(1999年のパキスタン人の報告による)。

1000年前もそう変わらない環境であった・・・と考えたいが実際は「地球温暖化」のせいで氷河が溶けており、現在はより危険になっている。

因みに近くにはダルクット温泉があり旅人たちの癒しの場(おそらく、世界で一番眺めの良い露天風呂)があるが、高仙芝の兵隊が利用したという記録はない。

高仙芝はそれから5年も経たぬうちに冤罪で斬首となるが、彼の記録は破られてはいない。