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私は佐幕派 派!

本文はここから

うちは「大坪」ってんだ。


『大坪流馬術』の末裔だ。


大坪流というのは『流鏑馬流』と並ぶ、日本の馬術の流派だな。


始まりは古くて・・・いや、古過ぎて記録に無い。


鎌倉時代の中ごろにはすでに有名な流派として武家社会にのし上がっていたようだ。

でなきゃ、室町幕府の正式な馬術として採用なんてされていなかったろうな。

そうか、分からないのか。

ゆとりクズのために書いておくと、1185年に鎌倉幕府が一応体制を整えるだろ?

あ、昔の日本人は1192年に鎌倉幕府設立と学校で教わってんだな。

あれは今では「何の根拠も無い」として廃れた学説なんだよ。

頭切り替えておいた方がいいよ。


話すと長くなるから先を急ぐと、その鎌倉幕府ってのは1333年には室町幕府にとって変られるんだ。

勿論平和裏に政権交代したんじゃない。

あけても呉れても戦いの日々・・・。

戦(いくさ)とくれば、馬は重要な兵器だな。

そこでうちのご先祖にお声が掛かり、参戦した。

もっとも「楠木正成」や「新田義貞」のように表立って活躍したのとは違うが・・・。


この頃の有名な読み物としては「太平記」が知られているね。

戦争の話ばっかりなのに「太平(平和で穏かでのんびりな状態)記」なんだよ。

日本史の書物の中で、最高のブラックジョークになっているが、当時は書物にタイトルなんて付けなかったから、後世の学者が勝手につけたんだろう。


ま、いいや。

室町幕府専属の馬術となってから、織田信長が室町幕府を潰すまでの間、大坪流は何とかかんとか食っていかれたようだ。

記録も残っている事だし。



けんぞーのアッとワールド!今昔話や裏表の話しと雑談!!

↑これがご先祖様。うちの墓にある家紋はこの爺さんの紋付とほぼ同じさ。


さて、戦国大混乱期にはやはりと言うか仕方ないなと言うか、大坪流の連中は御家存命のためにあちこちの有力大名に仕えて分散してしまった。

最初は関東方面に向かったらしい。

なんでかと言うと、「記録にそうあるから」

多分、関東には馬を多く養える平野があったからではないかな?

馬と一緒に移動したのかは不明だが・・・。


甲州の武田信玄と連絡もとった様だ。

ところが当時の武田家には「馬場春信」(信房とも信繁とも)という馬術の名人がいて、甲州馬術を牛耳っていた。

そこに大坪流が来ては迷惑したんだろう、あるいはうちのご先祖が敬遠したのかもしれない。

とにかく武田家には仕えなかった。

こっから北にも行かなかった。馬が育たない寒さ、と判断したのかも知れないし、そうじゃないかも知れない。


なので、関東以北(東北、上越、関東北部)に行くと「大坪」という苗字は珍しい方に入る。

因みに馬場家とは今でも交流がある。

NHK大河ドラマ「風林火山」の時に、NHK取材班がお宝を取材に来た馬場家の息子とは友人だよ。


いまじゃ北海道が馬の産地として有名だが、今の馬(アラビア馬)と昔の日本の馬(駒)とは性質も大きさも違うからな。


ともかく、大坪流を一番評価してくれたのは西日本の武将達だった。

九州の「大友家」「伊集院家」「島津家」とか。

中でも優遇してくれたのは、四国は土佐の「長宗我部」家らしい。

四国統一の野望に燃える長宗我部元親は、流浪の民「日本のユダヤ人」化していた大坪家に土地を貸してくれた。

今の須崎の近辺らしいが、その後に移封してきた「山内家」によって記録が消されたのか、それともたいした連中じゃないと思われて記録しなかったのか、詳しくは分からない。


領土を貰わなかったのは長宗我部一族が領土を拡張している時期だったから、落ち着いてから戦功に見合った土地を貰う予定だったのか、それともご先祖が単なる技術屋の集団で傭兵扱いだったからなのか?


ところが1603年、徳川家康が江戸幕府を開くと、大坪流馬術は徳川家の専属になってしまう!

おい!この前まで敵だったんだぜ~!

どんな裏工作したんだ、ご先祖様?


徳川家康の次男「結城秀康」(息子なのになぜに苗字が違うのかは自分で調べような)や、三男「徳川秀忠」(言わずと知れた2代目の徳川将軍だが、兄貴二人を差し置いて弟が何ゆえ将軍になったのかは、自分で調べてね)の馬術は「大坪流」なんだそうだ。

私が教えたんじゃないから断言は出来ないよ。


暴れん坊将軍で有名な8代将軍「徳川吉宗」も馬乗りが好きで、鷹狩りとかで馬に乗って遠乗りしているが、あれも勿論大坪流。


幕末近くなって異国船が下田や函館や浦賀や長崎なんかにやって来て、そのたんびに早馬(伝令だな)が江戸城へと走っていくが、あれも大坪流。


徳川の14代将軍「徳川家茂」は病弱で若死にしているんだが、この人に臨戦態勢なんだから!と鎧を着せて馬に無理やり乗せたのは、うちのご先祖様。

で、家茂さん、暑いし苦しいしヒーヒー言いながら完全武装して馬に乗って部下を見回りに行くんだけど、鎧が重くて馬の背に乗れないもんだから、「上様、ご遠慮なく拙の背中にお乗り下さい」って四つんばいになって将軍の踏み台になったのは有名らしい。

「あいすまんの・・・。乗るぞ。よいか。」って言って家茂さんは乗ったらしい。

いいお殿様だな!このヤロー!

早死にしなければ日本の歴史は今と違ったかもなァ~


勝海舟も大坪流馬術を習っていた。

ヤツが自分でそう言ってる。

「剣は神道無念流で馬術は大坪流を少々」みたいな。

免許皆伝のクセに少々もクソもないよな!


そんなこんなで世の中が慌ただしくなって、日本が真っ二つになって争いが始まったとき、ご先祖様は

「俺たち今まで徳川さんについて来て、馬術指南役(先生)なんて役職頂いてるけど、ちょっと徳川さんの風向き怪しくねェ?」

「そうだな~。ちっと先行き不透明。ってか陸奥(みちのく)や蝦夷(えぞ)まで付き合ってらんねェーし・・・」

「適当についてくか、それとも官軍について行くか。決めなきゃ御家がやばいじゃん。」

みたいに話し合ったんじゃないか?推測だけどさ。


「じゃ、うちの一族は官軍に付くよ。少なくとも御家断絶にはなんねーべ?」

「それならウチんとこは海軍さんになって幕府側に付くよ。これからは馬じゃなくて鋼鉄の船の時代だーなー。」

↑で、うちは追撃側。

だもんで、曽祖父の本籍は茨城県。福島よりの所。

そこまで行って官軍から脱落してる。戦争で負傷したのかな?

それともいい娘でも茨城にいたのかな?


海軍になって蝦夷政府(幕府が蝦夷地に行って勝手に名乗った共和国)についていった方は、新撰組の土方の野郎が「新政府軍の軍艦ぶんどってこよう」とかワケ分からん事を言い出したから大変な目にあったようだ。

詳しく知りたい人は「海音寺潮五郎」の『日本名城伝』の「五稜郭の章」を読んでみてくれ。

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曽祖父は明治に入ってからは農家になって「こんにゃくいも」作っていたってさ。

どうでもいいけど、漫画家の「荒川弘」の曽祖父は北海道に移住して農家(って言うか原生林開拓)した口だな。

うちももしかしたら北海道で農家やっていた可能性はあるんだな。

そしたら脈々とお馬さん相手してた事になるな・・・。

あ、私も馬に乗れるよ。15歳の時に練習させられてなァ・・・(遠い目)


高校野球なんかで大坪選手って出てきたら、大抵四国の学校だよ。

東北からはまーいないわ。

いたら逆に教えて欲しいんだよ。

なんでそんなトコに住んでんの~?

どこの血脈だァ!?


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