息子が世を去って三年、三回忌も済ませた今、何か心にかかることがあって、彼女
に言わせているのだとしたら—— まだ足りないの。もっと、愛してほしいの。 全身
で訴えかけている。 早くに死んだ息子を忘れることなどできはしない。今でも思い
出すと涙があふれる。 娘に、夫に、回りの人に気取られないようにするので精一杯
だ。 娘には私の哀しみを分け与えるつもりはない。 したくない。 でも、こんな
小さい子に、愛される難しさを悟らせてしまった、親として何と情けないこと。 加
奈江は、ただ、小さい我が子を抱きしめるだけだ。 なかなか泣き止まない娘の向こ
う側では、夫が難しい顔をして立ち尽くしていた。 政。 彼女は心の中で問い掛け
る。 生き続けるのって、難しいのね。 正解があってないような中を、舵取りして
流れていくの。私たち。 でも、私たち、お互いを信じて、行くしかないんだわ。
この子のために——死んだ子のために。 だからひとりで傷付かないで。 はっきり口
に出したわけではないけれど、目に思いを乗せて彼を見つめた。 見つめ返す視線
が、心なしかほころんだのは多分、気のせいではないと信じて。 ◇ ◇ ◇ 娘は
日々成長していく。 裕にとって、母は世界の全てだったから。 とかく母の後を追
い、彼女の真似をしたがった。 例えば、当時、政の仕事はいよいよ軌道に乗り、晴
れがましい席へ夫婦揃って招かれることも多く、その時は正装に近い装いで出向い
た。 加奈江は洋装よりも和装の方が似合う。 和服を仕立てられるぐらいだから、
着付けはお手の物だった。 その、母の着替えが始まると、娘は何をしていても、ま
まごとやおもちゃを放っておいて母の仕度を見たがった。 七五三で晴れ着を着せよ
うものなら、狂喜乱舞して落ち着かなくて、仕度に手間取り、せっかくの晴れの日に
母にお小言をもらってすっかりしょげてしまった。 「まあまあ、あまりきつい事は
言ってやってくれるな」 こんな時、政は娘の弁護人になる。 「裕はお着物がうれ
しかったんだよなあ」 「うん」 ベソかき寸前の娘は、口をへの字に曲げてこくり
とうなずく。 「せっかくきれいにお化粧したのに、泣いたら落ちちまうぞ。そんな
にお着物が好きか」 「すき」 「じゃ、今日一日いい子にできたら、毎日着てもい
い着物を買ってやろう」 「お父さんっ」 加奈江は口を挟んだ。 「甘やかすのも
程々にしないと」 「いいじゃないか、女の子がきれいにしたいと思うのは当然なん
だから」 政は取り合わない。 「裕は何でお着物が好きなのかな」 ちらりと、加
奈江の方を見ながら、父親は問う。 「お母さんみたいになりたいんだよなあ」 こ
くり、うなずく娘は、頬をりんごのように真っ赤にして、飾りがたくさんついたかん
ざしをゆらした。 もう、と口を挟む気も失せる、平和なひとこま。 穏やかな、静
かな日々が積み重なっていった。 親子三人、水入らずの生活。 何の不足もない、
滔々と水が流れるように過ぎる日々の中でも、時折、胸の鈴をゆらすようにここにい
るはずだった息子の姿を夢見てしまう。 今頃は幼稚園に、もうすぐ小学校へ上がる
歳なのだわ、と、同じ年頃の子供たちを街中で見かけると、自然と目は姿を追い、も
し、あの子が生きていたら、と考えてしまう。 政も、ふと手を止め、故人を懐かし
むように遠い目をする。 どうあっても、理屈ではわかっていても、埋められない間
隙は生まれてしまう。 その不在感を拭う方法を、ふたりはまだ知らない。