8月某日  白馬鑓温泉小屋 足湯にて

北アルプス山行話がOさんとSさんと続くなか常念岳と蝶ヶ岳縦走ルート選択に至った。
経験済みのOさんと話すうち、三脵から入山をして前常念を経て常念小屋で一泊。翌日に常念岳から蝶ヶ岳へ登頂をして、三脵への下山をする三角形の縦走ルートが賢明だと至った。

三脵から前常念へのコースは登りも下りも険路だと見聞きをしていて、悩んでいたのだった。

猿倉山荘へと下山をして安曇野市街地から見上げる一際おおきな常念岳を見上げた。
山頂よりひとつ下に発達をした肩の筋肉を蓄えた前常念が居て、そこまでのルートにイメージを幾つも重ねた。

数日後、常念小屋に予約の電話を入れるとコースを聞かれた。

ええ、三脵から前常念を経てそちらへ。翌日は蝶ヶ岳ヒュッテです。

初めてのコースですか?はい。と答えると最速でも6時間です。遅くても午後3時までには小屋に着くようにしてください。と言われ、登りも難所だと確信をして通話を切った。

9月8日  未明、三脵登山口駐車場にて

あいかわらず雨粒は好き勝手に車の屋根を打ち続けていた。
スマホで調べると麓の安曇野市は晴れ。
常念岳山頂はうっすらと陽射しを浴びたりしていて、出来るだけ雨雲を排するようにしていた。

数十分もすれば雨が止んでくれるのかも知れないし、そうでもないのかも知れない。
もう一度、微睡んだ。

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雨は止まなかった。
ザックカバーを掛け、ゲーターを装着してゲートの先へと歩きはじめた。

林道の脇の枝が大きく歪曲をしていて猿がその実を毟り取りほっぺたを膨らませていた。
人見知りなんかまったくしていないところが不気味だ。

分岐点に着いた。
右に向かえば前常念を経て常念岳へ。左に向かえば蝶ヶ岳に到着する。

見上げても見上げても続く急登の連続は噂以上のものだ。ぶな立て尾根すら愛嬌者にしか思えないくらいに。
本降りになった雨水が登山道を洗い流し、強風が木々を揺さぶる。ベンチなどの休息箇所は無くて例え設置されていたとしても雨のなか座ったところで寂寥感しか覚えないだろう。
だから休息をしないで、ゆっくりと歩き続けた。

一旦、高台に出ると森林限界を越えた。
次の衛兵は巨岩の重なる岩陵帯だった。幸いにして雨は小降りになったが、ガスで視界が利かなくなっている。マークを見つけながら三点支持で進んでいく。

なにが問題かと相棒と話、それは靴だと意見が一致した。
僕らの靴はイタリアFW社製BRモデルだ。足首まわりには仔牛の柔らかな革が貼られていて動きにストレスが無く、ビブラムソールも滑りにくくカットされ、濡れた岩の上に立ってもグリップは保証されている。

だが、一番の問題は防水性に乏しい点だ。
鷲羽、水晶を縦走した翌日は大量の雨が降っていた。防水スプレーをふんだんに吹き付けたはずなのに靴下までぐっしょりと濡れ、何倍にも重くなった靴で下山したのだった。
だから今回は入山前にゲーターを巻いたのに、また湿りはじめていた。
構造上の欠陥があるのだろうか。

とにかく小屋に到着すれば乾燥室に持ち込み、一晩中ほったらかしにしていればどうにかなるだろうと話をした。

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短な水平道に飛び出した。
前常念への核心部を通過したようだ。

く く く

と、なにかが鳴いている。

ねぇ ねぇ ねぇ

と、呼んだ。

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ふり返り相棒に雷鳥が居ると指をさした。

あっ!相棒も疲れを大岩の下に投棄てて、嬉しそうな表情を見せた。

ここまでろくな休息を入れて来なかったので雷鳥とひと時を過ごすことにした。

く く く

風見鳥ポーズのまま何度か鳴くと這松のなかから家族が現れてきた。
春に産まれた雛が成長をしていて、まだ一人り立ちをしていないのだろう。

見ればみるほど可愛い。
麓にいた猿が此処まで上がって来ないのを祈るだけだ。



前常念を越えた。
後ろから来た人は雷鳥を見なかったと言う。

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常念岳八合目の分岐を右手に曲がり小屋へと下りをはじめた。

あいかわらずガスは濃くて小屋の屋根も見えないし、踏む度にがちゃがちゃと鳴る石だけが時間の経過を刻んでいる。
明日はこの坂を上り返さなきゃならない。そう考えると苦笑いが出た。

30〜40分ほど下っていると風にモーターの音が混ざってきた。
もうすぐ小屋だね。相棒に言うと赤い屋根がガスの切れ間に浮かんだ。

ビール飲もうな。きっと全身が悦ぶさ。
あぁ、勿論さ。

宿泊の手続きを済ませてから乾燥室はどこにあるかを尋ねた。
靴やザックカバーは持ち込み禁止だと言う。

二階の部屋まで案内をされるまま、僕らは濡れた靴下の跡を階段や廊下に残した。

部屋は六枚の布団と寝袋が置かれていた。
扉を閉めて着替えをして、乾燥室に吊るせるものを干してから食堂でビールを交わした。

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疲れてしまっていたのか、部屋に戻り寝袋に入るとすぐに眠っていた。
微睡みが中断すると、おばあさんが同室をしていて、挨拶をした。

いいですよ、脚を伸ばして休んでも。

ありがとうございます。と応えるのがやっとでまた眠りに落ちた。

夕食を摂り談話室でワインとビールを飲みながら翌日の行動を話した。
テレビモニターに映し出された予報は、晴れ。
今日ほどの苦行は無いだろう。

忘れものを取りに部屋に戻るとおばあさんの居た布団に姿はなかった。

部屋の外にある棚に寄り、靴を撫でると冷たく湿っていた。
困ったもんだ。と内心吐露をした。

その靴では大変でしたでしょう。

背中越しに掛けられた声に振り向くと、ザックを整理する男性の横顔があった。
皺の奥まで日焼けをしていて、老人と海の主人公サンチャゴを思い浮かべた。

どうしてそんなことを知っているのだろう?

はい。大変でした。そう応えたけれど、会話の発展には至らなかった。

相棒は岩手県からいらした団体さんと日本酒を酌み交わしていた。
座ると、僕にも注がれた。

明日は大天井岳から燕岳に縦走するのだと話していて、それが酒を交わす度に北岳に向かうと内容になっていた。

僕らはアイコンタクトで笑いを堪えた。
二人になってから、靴を指摘した人がいたことを伝えた。

疲れに負けて、また寝袋に潜り込んだ。

おばあさんは布団に居なくて、幽霊でも見たのかなと夢うつつに思った。
山頂から念仏は聞こえなくて、また本降りになった雨音だけが騒いでいた。

明日こそは晴れるさ。