青木鉱泉の駐車場に車を止め、車中泊をして朝を迎えた。

身支度を整えて外に出ると、風情のある温泉宿があった。登山オンシーズン時なのに営業はしておらず、ロープでぐるぐる巻きにされた販売機が悲しげにこちらを見ていた。

轟々と強い流れの渓流沿いに咲く草花は飛び散った飛沫を浴びている。昔、川が氾濫をして架かっていた橋を流してしまったらしい。

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ドンドコ沢コースを歩きはじめた。

1時間ほど歩いたら意外と体力を奪われているのを感じた。だらだらと続く長い坂が、静かにダメージを与えていたのだった。

幾つか渡渉をすると大岩の登りが待っていた。何分か繰り返すと身体に異変が起こった。両足裏が攣り、我慢しながら繰り返すと、次は両膝上の筋肉が痙攣をはじめた。
痙攣は今日がはじめてでは無いので、持ち物に必ず薬が入っている。

わりと速く効果が表れるので、小休憩ついでに薬を飲んだ。約10分後、指先を動かすと多少の違和感はあるが再び歩きはじめた。
けれど、また同じ部分が痙攣を起こした。スピードは落ちて、踏ん張りも効かない。

すぐ横に五色ノ滝が落ちるのに、そこまで歩けずに倒木に座り込んでもう一包の薬を飲み込んだ。

「行動不能」
はじめてそんな言葉が浮かんできた。
このまま動けなければどうなるのか?
小屋に連絡を入れ迎えに来て貰う。いやそんな迷惑は掛けられない。
山岳保険は更新したばかり。けれどヘリポートすらない山域でホバリングは無理だろう。
最悪なイメージが連続して沸いてくる。

大丈夫か?相棒が訊く。
大丈夫。そう応えた。いつまでも座ってはいられないと内心思い立とうとしたが、背中の荷物を支えられなく立ち上がることすら出来無かった。
相棒に腕で支えて貰い立ち上がった。

コースの先にはもう岩は無く、樹林帯に入っていくようだった。大した落差も無さそうでゆっくりなら歩いて行けると踏んだ。

樹林帯を抜けると、そこには平らな庭園が広がっていた。いつの頃からは分からないが、渓流が流れていたであろう花崗岩の庭。真っ白な岩があちらこちらに聳え、崩れてザレた砂が散らばっている。そう言えば明日に登る地蔵岳は花崗岩の山だったはず。鳳凰小屋はその山頂直下にあるのだから、もう少し歩けば着くのでは無いか。

先行する相棒は下山中の人と話している。

ふと下を見やるとふたつの物が落ちていた。
ひとつは金太郎がプリントされた金時山のバッヂだった。誰かのザックから外れたのだろう。
もうひとつは相棒に見せてやろうとサコッシュに仕舞った。

小屋まであと1時間くらいだって。さっきのハイカーから聞いたらしい。
掛かっても1時間なら頑張ろうと思った。それに直感を信じればその半分くらいで到着できると強く思った。

15分後、樹林帯の隙間から黒い屋根が見えた。とても小さな屋根で避難小屋にも見えた。
すぐその隣には大きな屋根があった。鳳凰小屋に間違いは無かった。

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玄関先に立つと多くのスタッフが迎えてくれた。

お疲れさまでした。
大変でしたでしょう。
いらっしゃいませ。

寝床は端っこで、今夜の就寝は上質であることを確約された。

丸ごと衣類を取り替えリフレッシュシートで汗を拭うと、膝と脛にたくさん擦り傷を作っていてすべて出血していた。岩にぶつけてばかりだったのだろう。手当てをしてから着替えて寝床から這い出すと、いろいろな人から声を掛けられた。
それは僕を追い越して行った人たちだった。

大丈夫でしたか?
よく着かれましたね。
などなど。

よほど最悪な歩きをしていたのだろう。

ありがとうございます、と明るく返事をした。

相棒を振り向き、言った。
悪いな、地味な歩きをしようとやってきたのに目立つ登山をしてしまったようだね。

相棒が肩をふたつばかり叩き、庭に出ようと笑った。

湧き水で顔を洗うと、やっと緊張感が消えた。
テラスのテーブルに座り、コーラで乾杯した。

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