ギバーの話はその辺で日常会話になってきておりますが、
えせギバーではなくてですね。
愛を自然に振る舞っていく、才能を発揮していく、というのはもちろんそうなのですが
いわゆる私のなれたらいいなって思うギバーというのはですね
やりたいことやっていこう!とか、やりたくないことはやらない!とか、なんで私の愛をわからないの!とか、循環のしない愛(これをおせっかいと表現された時はしびれた❗️)をしていくのではなくてですね
あくまで私のなれたらいいなって思うギバーっていうのは
やりたいことも、すきなことも、
やりたくないことをやる・苦手なこともやる、という選択肢をも、もち。
それすらも心から自由に全て選ぶことができる。
好きな人のことを好きでいる、嫌いになったら嫌いになる、嫌いな人を嫌いでいる、のは誰にでもできるけど
それでも接することができるほどの心の余裕と満たされ度、それが私のなれたらいいなあっていうギバーだし、それってつまり
寛容性
ってことなんだと思うんです。
私は自分のことを内観していくことしかできなくて、人の内観を手伝うことはたくさんあるけれどもそれは自分で内観しているわけではないのです。
あくまで内観した結果をお話として聴かせていただいているに過ぎない。
その内観で得たものやそのプロセスを聴かせていただくことで私自身への更なる学びにさせていただき、深め、それをたまたまご縁のあった方に、さらに前より成長した自分が更に深い部分での整理や内観のお手伝いをさせていただけるようになる、、、という循環として、だけなのは実体験としてありますので
それってつまり、ギバーの話に置き換えますと、
どれだけ寛容になれるか、という命題に対しては
アンサーは、
どれだけ自分自身に寛容になれるか
それは訳のわからない人に「むかつく!」で終わらせて「私悪くないもん!」というベクトルでの寛容さでは全くなくて(その人の状態によってはそれがようやくできた、という人もいるので、ここではあくまで遠い先、ここに行きたいんだよ私は、というだけのお話として聴いてください。)
なぜそこで怒るのか、なにを大切にしたくてなぜそこまで大切にしたかったのか、そのあたりをきちんとキャッチし、受け取り、寛容になる。
正確ではないが一旦わかりやすく言うと「守ってあげる」自分の本当の気持ちを。
他者の主張や意見を聴くことは、言うことをきくこととは少し違う。表面上言うことをきくこともあるかもしれないけれど、大きく違う。
コントロールされるという選択肢を持ち、それすらも選べるほどの心の自由さ。(何度も言いますが心の状態や環境によっては守ってくださいね、逃げてくださいね。)
そこに行き着くためには、相当の学びと、「私」と「あなた」(例えば対立するAとB、意見の異なるA国とB国のようなイメージ)と「私たち」の3つを同時に見ること。
主張や意見を聴くことは、自分のことを真に守ってあげられている人にしかできない。
相手の主張や意見を跳ね返さないといのちを守れない、戦って勝たないといけないのであれば、あなたはあなたのことを守っていない、ということを証明していることになる。
私の思うつよさとは、勝つor負けるではなく、負けない(戦いならば死なない、そもそも戦わない)
現代風に心の世界としていうならば、自己肯定でも自己否定でもなく、自分で自分のことを否定しないこと(うつにならないための最大の要素)
このように攻撃したり、攻め込みに行く必要がないのは、なぜなら本来相手の主張や意見で(その程度で)あなたのいのちは脅かされないはずだから。本当は守る必要すらないのが、正確ではないと言った理由です。が、それはめざしたい方向性というだけなので何度も言いますが崩壊しそうなら守ってあげてください。誤解のなきよう。
そして「つよさ」についても
いかりや長介さんの言葉から「人間はよわいまんまでいい。強くなるということは自分や人の痛みに鈍くなるということ。」ということで私はかなり合点がいっております。
好き勝手する人もいるし、自分さえよければって人もいるし。
やだなって思いますよ?
思うけど。
弱いものいじめをするとかいのちを大切にしないとか、そういう根本に関わるもの以外は
この世は修行場なので。
なんだかめざしたい方向性は、やはり寛容性で。
私のセリフで言うならば、
「今は嫌だな、離れたいな、はもちろんある。嫌だな、はあるんだ、あるんだけど、けどいつか、楽しく飲める日がくることを俺は結構結構心の底から願っているからね」