外国人とお話することがあると、かなり頻繁に気づくことがあります。
外国から来た人にとっては、「どうでもいい」(やらなくても困らないとか、持っていなくてもいいとか)と思うようなことが、日本では、やたら多いよな、ということ。
たとえば、子どもの文房具。
小学校だと「無地の」鉛筆・消しゴム・赤鉛筆・青鉛筆・定規…
で、それ以外は筆箱に入れません、みたいなルールとか。
学習に向かうべき集中力が文房具に向かないように、という意味は多いにわかるものの。
外国人からすると、なぜ鉛筆?ってところから。
書ければなんでもいいでしょ、シャープペンとかペンじゃだめなの意味わからん、とか。
実際、外国人的な視点から考え直すと、確かに「無地の」「鉛筆」とか言われても、まあまあ余計なお世話なんですよね。
無地でない文房具をもっていたとして、それで勉強ができなくなるのは自分の子なわけですから、そこまでおせっかいに言われる意味が分からないだろうな、と。
国によっては、子どもはほぼ手ぶらで学校に行くみたいなところもあるようですからね。
学校で、誰でも使ってよい文房具が準備されていて、それを使う、というようなシステムで。
なんなら教科書も「学校のもの」として(日本の学校だと資料集みたいなのとか、辞書はそういう扱いのものがありますね)おかれていて、必要なときに、棚から持ってきて使う、っていう。
文化的、システム的に違うひとから見ると、「なにそれ、なぜわざわざそんなことを?!」って思われるようなあれこれ、日本にはたくさんあるなぁと思います。
上記の例もそうですが。
そうした方が「見栄えが良い」とか「公平である」など、ルールの存在理由はそれなりにあるにせよ、ですよ。
突き詰めて考えると、案外どうでもいいことの方が多い気がしています。
それを準備しておかなくとも、別にいいよね。
(あったら便利かもしれないけど、無くてもできるよね、な物。)
とか。
揃えなくとも、別にいいよね。
違うものがあると目立つかも知れないけれど、そもそも見栄えを気にする必要もないよね。
(例えば、運動会では靴下の色は白!というようなルール。)
とか。
事前・事後にそこまで考えなくても、いいよね。
目標とか反省とかを「書く」の、その活動をすること自体にはなくてもできるね。
(そもそも、書いたところでキレイごとになるのが確定している状況だよね。)
とか。
誰かが誰かに叱られないように先手を打った結果なんだろうなあとは思うんですが。
無駄や、妙な先回りが多いなぁ、と。
外国から来た人は、そういう不思議ジャパンに振り回されることがよくあるので、大変そうだなぁと思います。
よく考えたらどうでもいいから、別にやらなくてもいいです、とも言えないもどかしさ。
どうでもいいルール等、説明していて申し訳ない気持ちになります。
日本人も、どーでもいいところはどーでもいい、と認められたり、無駄を削ってもよくなればいいのにね。
みんな同じ、が美徳な雰囲気がまだまだ根強いので、道は長そうです。