叔母、誕生日が9月なんです。
で、その叔母は、満州で生まれて、あやうく残留孤児になるような、ぎりぎりの状況で日本に帰ってきた(というか当時1歳前だったので、「祖父母が連れ帰った」ですけど)という話。
今日とか、9日とか、15日とか、8月になると戦争のあれこれがニュースで流れますでしょ。
そのときに、叔母みたいな人、まだ存命なのだよなぁ、と不思議な感覚に陥ります。
もちろん当時の記憶は全くないということですが。
戦後の、ひもじかった時代、祖父が早々と病気で亡くなって、その後やたら苦労した時代、そんな時代のことは忘れたくても忘れられないことでありましょう。
戦後生まれの父でさえ、「(祖父が死んでしまったので、その後しばらく)笑っちゃうぐらい貧乏だった」みたいな話をしてましたからね。
叔母は誕生日が来たら79歳。
終戦から78年っていうので、当時約1歳だった、というので計算が合います。
戦争の話が出る8月になると、ああ、叔母は今年で〇〇歳になるんだなぁ、と。
(叔母、存命ですからして。あまり頻繁には会ってませんけども。)
78年も経った、とも考えられますが、まだ78年しか経ってない、とも言えますね。
戦争は誰でも避けたいことですが、最近の国際情勢だったり、移民あれこれだったりを見ていると、戦争にまではならずとも、内戦だったり暴動だったり、規模の問題なだけではありますが、暴力あれこれがいつ起こってもおかしくないご時世になってきた感があります。
そのとき、自分には何ができるだろう。
と、思って、庭の畑を耕すなど。
て、いや、そこ?!
と、我ながら思うんですが、震災の記憶からすると、急にいろいろ買えなくなって一番困るのが野菜ですからね。
まあ、だいぶ無理がある、考えの飛躍ですけども。
個人が備えられることは限られているとはいえ。
いつまでも平和が続くという保証はどこにもないですもん、残念ながら。