躾は。

人の気分で左右されるあいまいさが「ない」ところでのルールをもって、論理的に双方が納得する形で行われるものだと思う。

 

例えば、箸の持ち方とか。

例えば、自分の持ち物を散らかさずに片付けるとか。

例えば、挨拶をするとか。

 

怒鳴ったりたたいたりしなくとも、根気強く教えることができるもののはず。

 

虐待は。

強者側の身勝手かつ一方的な、一般的とはいえないルールをもって、非論理的に、弱者側が全く納得できない状況で行われるものだと思う。

(強者側が親や教員で、小さい子に対してマインドコントロールをしていると、表面的には弱者側も「納得している」ようには見えるのかもしれないけど。こわいこわい。)

 

箸の持ち方がうまくいってない、だから手を叩いてもいい、とか。

部屋を散らかした、だから家の外に締め出してもいい、とか。

挨拶をしない、だから延々と無視していてもいい、とか。

 

原因となるところは躾の範囲にかすっていても、そこから先の「指導」部分が虐待よね…。

 

というわけで。

 

うっかり声を荒げて「指導」してると気づいたときは、果たして今自分がやっていることは自分の気分に基づいてやっていることではないよね?と落ち着こう。

 

さらには。

何回言ったら分かるの!とか、この前も言ったよね?!とか、そういう類の、言ったところで(言われたところで)何の解決にもならない、単に自分の愚痴みたいなフレーズを封印しよう。

 

と、心がけています。

 

相手が自分の子供でも、「ひと」であることには変わりない。

尊重。大事。平和的解決。大事。