『生きる』とは何だろうか。
呼吸をすること、食事、睡眠、それからお金。これだけあれば取り敢えず『生きて』はいられる。『生きる』だけなら事足りる。けれど果たしてそれは楽しいことか。嬉しいことか。何となく『幸福』とは程遠い気がするのは何故だろうか。

生きる意味だとか生まれた理由だとか、そういう類の哲学にはその事を考えることそのものに何の意味も感じない。私は自分の意識の外で生まれて生かされて来た。それは意味や理由があろうがなかろうが覆りようのないただの事実だ。今は意識の中に生きているが、だからといって意味や理由は後付けにしかならない。要は生まれたことにも生きていることにもそれ自体には意味も理由も存在しないのだ。
そんなものは生きてしまってからいくらでも付ければ良いと思う。私はこれのために生きたのだ、とか僕の存在理由はこれだったのだ、とか。何だって良い。自分がそう思えばそれはそうなのだから。他人に決められることではない。

さて、私は息をしている。
ここで携帯電話を開いてこんな文章を書きながら息をしている。コーヒーを飲んで煙草を吸っている。私は確かに『生きて』いる。皮膚を裂けば赤い血が出るだろう。痛いからそんなことはしないが。呼吸を止めればすぐにでも死ぬだろう。死にたくないからやらないが。それだ。私は死にたくない。『生きて』いたいと強く願ったことは幸か不幸か一度もないが、漠然と死にたくないとは思う。痛い思いも苦しい思いも寂しい思いも出来る限りしたくないし、楽しくて幸せで嬉しいことばかりならそれに越したことはない。ならば何故苦しくなるのか、それは期待するからだ。人に、物に、物事に、期待をするから苦しいのだ。だからといって期待をやめることは出来ない。それは私が『生きて』いるからだ。

24歳の小娘が大それた人生論を語るわけではないが、人生を道に例えるとするのなら、私は今走ってはいない。いや、歩いてもいないだろう。寝転んでいるかもしれない。うさぎとかめの昔話じゃないが、私はうさぎのような大した能力も才能のないくせにかめのように一生懸命歩くわけでもなく、寝転んでなんとなく空を見上げている。「なんか良い事ないかなぁ」「明日になったら立ち上がろうか」なんて毎日毎日言いながら。それがいけない事とは思わない。人生にはそういう時間も必要なのだとは思う。けれど生まれてこのかた私はずっとそうなのだ。こんなネットの隅っこでこんな意味のまるでない文章を書くよりか、身になることはいくらでもあるはずなのに。私はそれをしない。

『生きる』とは何か。
どんな高名な哲学者の名言も格言も主観でしかないのなら、自分で探すしかないのだろう。私は私でしか有り得ないのだから。

死ぬまでに、それが明日かもしれないがそれまでに、何か見つけられたら良いなと思う。つまり私が馬鹿だということだ。