その「プリムール」に「ヌーヴォー」という名前がつけられたのは1960年のこと。
名付け親はボジョレーワイン同業者連盟のイチ職員、Gerard CANARD(ジェラルド・カナール)。
イチ職員だったけれど、後に連盟の会長となったのだから、やはりタダ者ではなかったのだろう。
「11月15日をワインの『革命の日』にしよう!」
「大衆がバスチーユを占拠したように、新酒で国中を満たすのだ!」
そんな企てを提案した。
しかし所詮はイチ職員。
誰も聴いてはくれず、それは単なる「企て」で終わってしまった。
というのも1960年当時。
ワイン界は戦後の急成長期。
ボジョレーワインでさえ、通常の熟成ワインの売上をグングンと伸ばしていた。
そんななかで新酒は完全に置いてけぼり。
「ヌーヴォー」という新しい名前も耳にすることが少ないために定着しなかった。
けれど1965年。
この年を境にフランス社会全体が倦怠感に包まれ始め、ワイン界も成長が止まってしまう。
その静寂の中、再び蘇ったのが、このカナールの企てだった。
「このままボルドーやブルゴーニュの後追いばかりを続けるつもりなのか。いや、それでは埒があかない」
「正直なところ、ガメイ種がピノ・ノワールやシラー、カベルネ・ソーヴィニヨンなどに太刀打ちできるはずがないのだ」
「では、どうすればいい?」
「むしろ、そのガメイの特性を活かし、もっと”ボジョレーらしさ”を売ることはできないか?」
そう考えたカナール。
”ボジョレーらしさ”。
つまり本来のボジョレーとは何だったか?
そこまで考えた時、
「そうだ。カフェ用ワイン・・・新酒があったではないか!」
「戦中の文士達を励ました新酒」
「その新酒で今のフランス社会も陽気に明るく励ますのだ!」
「新酒をボジョレーのスターの座に昇進させよう!!」
ここにアイデアが至った。
そして今回は
「一人では無理だ。また”単なる企て”で終わってしまう」
と、同士を集めた。
同士となったのは
「新酒じぃちゃん」と呼ばれ「栽培者の教祖」とも崇拝されていたLouis BERCHARD(ルイ・ベルシャール)。
原産地名称国立研究所の役人、Gaston CHARLES(ガストン・シャルル)。
酒卸商のGeorges DUBOEUF(ジョルジュ・デュブフ)
この3名。
ボジョレーを深く愛し、葡萄栽培に深くかかわってきた4名。
その4名の提唱者達の知恵と情熱によって
1968年、ボジョレーの革命が旗揚げされた。
「”革命”だけれど、それは血なまぐさいもの、荒々しく他を蹴落とすようなものであってはいけない」
「あくまでもワインは人を楽しませるもの、喜ばせるものなのだ」
「つまり革命というより”お祭り”だ」
「人々を陽気にさせ、社会を活気づけ、皆に豊かさを感じさせる・・・そんなワインの祭りに・・・そうだ。解禁日を大々的な”祭りの日”にしてしまおう!」
さて成功するのでしょうか?
したんですよね♪
ではその成功の秘訣は何だったのか?
次回はそれについて。
ヌーヴォーに限らず新酒はその年のワインの出来具合を知る「試飲」でもある。
だからワイン好きは、この時期になると好きな土地や好きな銘柄の新酒を購入。
美味しく「当たり年」と判断できたら頭にメモ。
翌年や翌翌年に出始める、その年産のボトルをガバッと購入。
自宅のカーブで、ゆっくり寝かせる。
このボルドーなんて当時2ユーロか3ユーロだったんだよ。
それが今じゃ、きっと30ユーロ以上するからね~。
う~ん、賢い賢い♪
保存できるカーブがあるから出来ること。日本じゃ無理だよ・・・と言う人も多い。
私もそうだった。
でも
「そうかぁ。だったら日本も地下室をもっと作ればいいんだ!」
と、建築家の友人が今、奮闘している。
「地盤? 大丈夫だよ。日本にはあれだけの高層ビルを支えられる建築技術があるんだから」
ナルホド
地下室文化。
確かに狭い日本こそ広まると便利なのかも。
フランスも古い家やアパートにはあるけれど、新しい建造物にはなし。
掘るにも、その上に建てるにも経費がかかりますものね。
でもまた最近は作られ始めている。
後々のことを考えれば経費をかけてもその価値はある・・・と。
他の場所ではすぐに腐敗したり酸化したりしてしまうワインが、そこでは健やかに静かに眠れる。
なぜなのか・・・・・・。
地下の温度や湿度は、より「自然」だ。
その「自然を活かす」空間が見直され始めている。


