今朝の読売「編集手帳」を読んで、石川啄木が2月20日で生誕120年を迎えることを知った
若き日、岩波文庫の啄木歌集をまるでバイブルのように手元に置き、本のページがよれよれになるほど何度も読み返していたことを思い出す
数ある啄木の歌の中で、今でも心にびんびんと響くのがこれだ
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて
死なむと思ふ (「一握の砂」)
私は以前、新聞記者だった
19年間、読売新聞社に勤めていた
新聞記者は私の天職であり、「こころよく我にはたらく仕事」であった
しかし、事情があって新聞記者を辞め、いまは別の人生を歩んでいる
新聞記者として真っ直ぐに歩んでいる一人に毎日新聞の牧太郎がいる
彼は脳卒中で身体が不自由になっても、死ぬまで新聞記者でありたいと願い、「新聞記者で死にたい」(中公新書)という強烈なタイトルの本を書いた
私も、心の中では常に読売の記者であり続けたい
いつか死ぬのであれば、かつて新聞記者だった誇りと気概を持って死んでいきたい
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啄木の歌で、新聞社を題材にしたものがある
京橋の滝山町の
新聞社
灯ともる頃のいそがしさかな(「一握の砂」)
この歌には一時、朝日新聞の校正係だった啄木の、新聞社で働く素直な喜びがあふれている
一日が終わり、周囲のビルからサラリーマンが帰り始める頃、新聞社の編集局だけは明るく輝き、活気に満ち溢れている
「こころよく我にはたらく仕事」に取り組んでいる啄木の様子が目に浮かぶ
そして、そこには若き日の私の姿も見えている
●(以下引用)………………………………………………………………
★2月17日付・編集手帳
生計の窮迫した石川啄木は郷里の岩手県渋民村を引き払い、職を求めて北海道に渡った。母親は他家に身を寄せ、妻子は盛岡市に移り住んだ。21歳の春である◆日記の記述がいかにも啄木らしい。「啄木、渋民村大字渋民十三地割二十四番地に留(とど)まること一か年二か月なりき、と後の史家は書くならむ」。一家離散の憂き目に遭いつつ、昂然(こうぜん)と胸を張っている◆裸の心は歌のなかにあるのだろう。「わが去れる後の噂(うわさ)を/おもひやる旅出はかなし/死ににゆくごと」。鼻っ柱の強い自信家が吐息のようにもらすつぶやきは、いまも読む人の胸を揺さぶってやまない◆生まれたのは1886年(明治19年)の2月20日、今年は生誕120年にあたる。生を受けた季節の花、梅を詠んだ歌がある。「ひと晩に咲かせてみむと/梅の鉢を火に焙(あぶ)りしが/咲かざりしかな」◆時節を待てば花はひらくものを、火に焙ってでも早く咲かせねばならない…。実体験か、空想の産物か、おのが命の短さを知る人の焦燥を痛いほど伝えて、余すところがない◆薬代も払えない貧窮のなかで世を去るのは一家離散の日記から5年後、26歳の時である。「死して後(のち)世に知られたる啄木を嬉(うれ)しとぞ思ふ悲しとぞ思ふ」(与謝野鉄幹)。はかなく消えて、残像はいつまでも美しい。夜空の流れ星のような生涯だった。