金閣寺 ■1■三島由紀夫金閣寺」は、修行僧の金閣に対するファナティックとも言える異常な愛を描いた作品である


だが、彼の愛する金閣は「現実」の金閣そのものではない
もともと、彼が父から金色に輝く金閣の美しさについて聞かされ、心の中であたためてきたいわば幻想の金閣に対する愛である


現に、彼が金閣寺の修行僧になるべく、父に連れられ初めて金閣寺を訪れ、金閣の威容を見た時には「何の感動も起こらなかった」
それは古い黒ずんだ小っぽけな三階建てにすぎなかった」のだ


しかし、現実の金閣を見たことが、彼の心の中の金閣への「妄想」を一層激しくさせるきっかけとなった
戦争が始まり、金閣が空襲で焼けるのではないかという危険を感じた時、彼は金閣とともに焼き亡ぼされることを夢み、その考えに酔いしれるのである


異常なまでの愛は、それと裏腹に激しい憎しみを生む


彼は「憎しみというのではないが」と断りながらも、金閣と自分が「決して相容れない事態がいつか来るにちがいない」ことを予感するのだ


金閣を一時、出奔した彼は「私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと力との源泉」である「裏日本」の海を見て、突然、「残虐な想念」に包まれる
金閣を焼かねばならぬ


これに到る修行僧の心理描写には鬼気迫るものがあるが、この作品のなかで、私が何よりも圧倒されたのは、放火直前、彼が「別れを告げるつもりで」眺めた金閣の美の描写である


■2」■彼の目の前にある金閣は雨夜の暗黒のうちに沈んでいる
しかし、彼は「思い出の力で」、金閣の「美の細部がひとつひとつ闇の中からきらめき出し」、「ついには昼とも夜ともつかぬふしぎな光の下に」浮かび上がる


自ら発する光で透明になった金閣」を想像するがよい


三島がその金閣を細部にわたって描く荘厳な美の極致は、いまここでその文章を抜き出して書くことすらおこがましく感じる


方水院と観音洞の二層が「一対のよく似た快楽の記念」のように重なり、「上下からやさしくたしかめ合い、そのために夢は現実になり、快楽は建築になった」というこの快楽の美の描写はどうだ


第三層の究竟頂の俄かにすぼまった形が戴かれていることで、一度確かめられた現実は崩壊して、あの暗いきらびやかな時代の、高邁な哲学に統括され、それに屈服するにいたるのである」という知的な美の描写はどうだ


そして柿葺の屋根の頂高く、金銅の鳳凰が無明の長夜に接している


おこがましさを承知で、こうして抜書きしているだけで、私自身が、三島の描く美の世界に共振し、大げさに言えば、感動で打ち震えるのだ


さらに、三島の描写は続く

池に張り出した漱清の「均衡を破ること」による「形而上学的な反抗」、それが「秩序から、無規定のもの」への「官能の橋」になり、ついには「無限の官能のたゆたいの中へ」「遁れ去っていく


まさに天才・ミシマの面目躍如、私は、類まれな豊穣な言葉の海に、ただただ圧倒され、溺れていくだけである


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憂国 三島の金閣に対する美の描写で思い出されるのが「憂国」における美しい女体の描写である


2・26事件で遅れをとり、死を決意した竹山中尉が新妻・麗子と最後の愛を交わす場面

中尉は麗子に「お前の体を見るのもこれが最後だ。よく見せてくれ」と言い、その「忘れがたい風景をゆっくりと心に刻んだ」のだ


山桜の花の蕾のような乳首を持つ」「高々と息づく乳房」、「胸から腹へと辿る天性の自然な括れ」、「そこから腰へとひろがる豊かな曲線の予兆」、「光から遠く隔たったその腹と腰の白さと豊かさ」、そして「影の次第に濃く集まる部分に、毛はやさしく敏感に叢れ立つ」…


まさに官能の美である