朝、起きる。ヤァヤァ快眠だ。
そんなわけはなく、夢の世界から、まるで猫をつまんで外に放り出すみたいに叩き起こされた格好だ。
瞼は呪縛的に閉じたまま、スムーズに開こうとはしない。
頭は重く、頭蓋骨と脳みそはどうしようもない愚図のパティシエが拵えたスポンジのようにスカスカとした感じで、どうにも状況がよく把握できない。
耳の近くで、ちっとも良心的ではない電子音が鳴り響いている。
べるるるるるる、べるるるるるる。
けたたましや。いと、けたたましい。携帯電話の呼び出し音だ。
ガチャリ、はいもしもし。あぁ、クライアントさんですか。なんですって、今スグ来いと。
はぁ、承りましたぁ。ガチャリ。無音。
こんな朝っぱらになんだよ。朝?外、暗えじゃねえか。
何時だよ、おい。まだ電車動いてねえじゃねえか。じいさんばあさんでもまだ寝てるって。
ナポレオンは寝ないことで有名だが、実は移動中の馬車の中でよく昼寝していた、などと頭の中で情報が散乱、もそもそと布団から出る。
うーんと、伸び。
寝た気がしない、3時間。ろくでもねえ。
とるものもとりあえず、着るものは着て、寝ぐせを直し、しょうがないけど家を出る。
あ、歯ぁ磨いてくるの忘れてた。息、くっせえだろうな。昨日餃子の王将だったし。
まあいいや、ミンティア買っとこう。タクシー!どこどこまでお願いします、なんていって、降りるときにはしっかり領収書貰っとかなきゃ。
お客さん、夜遅くまでご苦労さん、と運転手が話しかけてくるもんだから、そうですね、大変ですよ、運転手さんもご苦労さんです、と一応返答。
今から仕事なんだけどね、実は。しかも、多分怒られに行くんだよ、僕は。
クライアントのもとに着く。でっぷりとした腹、脂の浮いた額、薄い毛髪、賤しいうすら笑いがこびり付いた口角、目尻、さながら猪八戒。
どうしてこうまで類型的な、嫌悪感を誘発する外見。ああ嫌だ。
遅いと罵られ、僕の仕事っぷりについて罵られ、結局要領を得ないまま、罵り罵り2時間。
クライアント、ひとしきり罵倒した後コーヒーを入れて一息ついてるもんだから、あの、僕はどうしたらいいんでしょうか、と聞くと、ああ、帰ってよろしいと。
なんだ、ただのストレス発散か。
よかった、弊社のミスは無かったんですね、とポジティブに。
帰る。馬鹿らしい。
家に帰ろうと思うが、左手に着けている成人祝いのうすら禿げた電子時計は、きっかり出社時間。
外は陽光、清々しい朝の光。馬鹿の朝。
走って急いで会社。自分のデスクに座ると、身体が垂直に落ちていくような感覚がして一瞬にして虚無。
魚のような顔をした課長に叩き起こされる。そうですよね、スイマセン。
一日、雑務。でるわでるわ、トラブルの山。
昨日寝るときは、一つ火急の仕事を片付けて、あとはのんびりタバコを吸いながら暇つぶしてりゃ終わると思ってたのになぁ。
朝から得意先でトラブルでやんの。しかもそのトラブルってのが厄介で。
あーあ。眠いって。得意先に出向く。ああ、この機械が壊れてしまったんですね。
これはこうこうこうして。え、直らないですね。おかしいな。うーんと。
ということを5度ほど繰り返す。限られた時間が、無能で無為で無生産な屑に換わっていく。
こうして、僕は労働力を資本家に貸し与えることで、その対価として賃金を得ているのだ。
資本主義の豚だ、牙を折られた蛇だ、去勢された犬だ。結局対応に追われて、夜。
得意先から会社に帰って、始末書書いて。明後日の会議は僕の持ち回りだ。準備。
同僚は我先にと、急いで帰る。今日に限って残業していかねえんだな、クソ。眠いって。腹減ったって。
そうこうしているうち、あらこんな時間。終電ぎりぎりの時間に出て、ダッシュで駅へ。
なんとか電車には乗れたけど、息は絶え絶え、足は鎹のように手ごたえがない。
心臓バックバク。高校時代、サッカーをやっていたあの頃の体力はどこに行っちゃったの。
僕の吐く息で窓が白く曇る。それはため息。嘆息。
車窓から見る景色は、単なる抽象的な電球の明滅にしか見えない。
ぶっ飛んでいく明りの数々が、モネのようなマネのようななんだかよくわからない模様に見えたり見えなかったり。
電車の中では、一様に能面のような顔をしたスーツ姿の人間達が肩を寄せ合って窮屈な座席に座っている。
まるでアウシュビッツに囚人を運ぶ列車の様だな。それか、奴隷船。
僕もその一員なんだけどね。蛍光灯が厭に明るいのがまた乙なものだね。電車が僕の目的地に滑り込む。
よろよろと電車を降り、よたよたと家路を歩く。
街灯は心なしか元気がないなぁ、そういえば、世間は自分の心を映す鏡だと聞いたことがある。
つまりは自分の気分が落ちこんでれば、街灯も元気なくして見えるってことだ。
進行方向右手にあるコンビニはいつも明るく、中にいるガキの髪の毛もいつも明るい。
それとは対照的に、店員の顔は暗い。ドライ。世知辛い。コンビニ以外は、辺りは暗い。
僕の家まで、ほとんど何もないのだ。人通りも、無い。
はぁ、やだやだ、明日も仕事だしなぁ、早く寝なきゃなぁ。そう思いながら、自宅のカギを探す。
あった。ガチャリ。開ける。ただいまー。だれもいないけど。
靴を脱ぎながら、手探りでスイッチを探す。部屋は真っ暗なはずなのに、こういうときだけ壁の染みがよく目に付く。
普段は見向きもしないのに、暗闇の中でしか見ないものもある。
パチっとした手ごたえ、ややあって部屋に白々しい温もりが灯る。
腹が減った。昨日買ってあったできあいの弁当を食す。
398円という値札を剥がしながら、なかなかにうまい。
着色料、保存料、あり。
缶ビールを飲む。ぶしゅう。プルタブがはじける音。安っぽい琥珀色に輝く液体、かすかに香る金属。
これはこれで良い。ぐびぐび。うまい。
風呂に入ろう。うん。安心する。寝よう。
ベッドにもぐる。電源が切れたように、奈落へ。そして朝。また、日々。
あれ、最悪ってのは、多分こんなもんじゃないかもしれない。
 初物語―『パーフェクト・ブルー』に始まる、読書する人生と成長―

 「初めて」という体験は、誰にとっても貴重なものである。
あなたにとって、心に残る大切な「初めて」はなんだろうか。
バイト先に来る小学生にそう聞いてみたところ、元気よく「足し算!」と答えてくれた。
いやはや、可愛いものである。
中学生男子に聞くと、「そんなこと聞くのは野暮ってもんだぜ」だそうだ。
一方、今年21歳を迎えた友人に同じ質問をしてみると、「グループディスカッションかな…」と言ったきり、何か嫌なことでも思い出したのか、むっつりとした顔で黙り込んでしまった。
「初めて」が良い思い出ばかりとは限らないところが、人生のほろ苦さだ。
 正直に言って、私は読書というものを中学生までほとんどしてこなかった。いや、「ほとんどしてこなかった」という程度表現は語弊であろう。「活字には拒絶反応を示していた」、と表現した方がいい。
一般的な文学少年が必ずは通る作品には見向きもしなかった。
『オズの魔法使い』、『ズッコケ三人組』などですら、私は読んだことが無い。
実をいうと、国語の教科書ですら、結構つらかった。そのくらい、「読書」という行為自体に、マイナスの反応を示していた。
実際には「食わず嫌い」ならぬ「読まず嫌い」であったのだと、いまにして思う。
幼稚園児が野菜を嫌うのと同様に、おそらく「初めて」読んだ小説が漢字だらけの印刷物であって、それを目にした時、読めない漢字だらけで辟易してしまったのだろう。
そして、その記憶から、どのような出版物でも、活字かつ漢字だらけのものは、無意識的に拒絶していたのかもしれない。
その証拠に、中学生に至るまで、私の文化資本の中枢を担う文化は「漫画」であった。
あれは漢字に振り仮名がふってあるからだ。イラスト中心なので、視覚的にもイメージがしやすい。
読書を挫折した少年にとって、格好の獲物であっただろう。『SLUM DANK』、『爆走兄弟レッツ&ゴー』、『ブラックジャック』、『ホイッスル』、『ジョジョの奇妙な冒険』、『名探偵コナン』、『浦安鉄筋家族』、『ロトの紋章』などなど、
掲載雑誌や作者、ジャンルに拘らず、ここには列挙しきれないほど結構な量を消化していたと思う。
おかげで歴代の担任から感受性も豊かだと評価されたし、漢字テストでは、勉強しないでもかなり良い点数をとれていた。漫画様様。
両親には「本読め、本」と言われ続けたが、小説や新書など、所謂「活字媒体」は、視界の隅っこにすらも入らない。そのような小学生時代を、私は過ごしてきた。
 しかし、人生と言うには少々短すぎるが、振り返ることも多くなった今日この頃、私は年間50冊近くの小説を読むまでになった。
読書家の皆さまには鼻で笑われる冊数、かつ急に前述の話をぶった切るようなことを言ってしまって申し訳ないが、とにかく、人並みかそれよりやや多く読書するまでになったのだ。
なぜそうなったのか。
今に至るまでの事の経緯、つまり私の「読書人生」を語るには忍びないので、ここでは事の発端を語ろうと思う。
今から8年前のことだ。ちょうど、日本と韓国で行われていた、サッカーワールドカップの、祭りの後の静けさが漂う夏の頃。中学生活初の夏休みは、すぐそこだった。
 夏休みの国語の課題に、読書感想文が出された。
何でも良いから、小説や論説を読んで感想を書いて来い、との事だった。渡されたのは、原稿用紙2枚。
一か月の猶予期間があるとはいえ、中学生の言語資本を鑑みれば、絶望と言うほかない枚数だ。
私は、それまで「正統な感想文」を書いたことが無かった。
小学生の間にも読書感想文の課題が出たことがあったが、そのほぼ全てに、「あらすじ」と「あとがき」から物語を類推して、適当なことを書きなぐるというコスい手法を使っていたからだ。
時には、母親や兄弟が「こうして書くんだぞぅ」と言って例に書いた感想文を丸っとパクることさえあった。
したがって、今回(ここでは中学の課題を指す)も、同様の手法をとらせていただく予定だった。
ただ、小学生のころと異なることは、感想文をチェックする国語の教師が部活の鬼顧問であることと、不正が発覚した場合には相応の罰があること、私が所属していた部活は、連帯責任という原理を、タリバーンのごとく遵守する部活であることだった。
恐怖でしかなかった。地獄でしかなかった。
 私は、仕方なく拒絶していた活字媒体に挑戦することにした。
最初に手に取ったのが、家の本棚で目に付いた『蒼穹の昴』だった。
登山初心者がウインドブレーカー一枚で富士山にアタックするようなものだ。
主人公の名前(春雲と書いてチュンルと読む)が読めず、2秒で表紙を閉じ、本棚に返送することとなった。
2番目に手に取ったのが、背表紙が薄かった『羅生門』だった。結果は言うまでもない。
 課題の材料にどうしたものかと悩んでいたら、父親が「お前と同年代の少年が出てくるから」と、一艘の助け船、いや、一冊の小説を差し出してきた。
宮部みゆき著『パーフェクト・ブルー』だった。この作品が、私の「初めての読書」である。
 私は、今までの読書嫌いが嘘のように、活字の海、漢字の荒波を、苦も無く颯爽と泳ぎ切ったのだ。
と、表現したいのはやまやまだが、現実はほろ苦かった。
実際には、最初の10ページをうんうん唸りながら読むのがやっとだった。全く読めない。
物語に自己像を投げいれていくことが全く出来なかったのだ。
つまらん、これがあと400ページも続くなら、いっそ殺してほしいとすら思った。
ゆえに、「初めての読書」と位置づけられる経験は、あっけなく終了した。
私は本を閉じ、「課題」という課題を当面忘れることにした。
しかし、時間は流転するし、不可逆である。着実に、課題提出の日が迫っていた。
まるで死神が不吉なダンスを踊りながらこちらへ迎え出るように、
タイムリミットは刻一刻とその歩みを進める。尻に火がつき始めていた。
流石にそうなると、いくらなんでも課題に手をつけずにいられない。嫌でも読まなければと思い、
挫折した書籍の中から、読んでみた感触が最もマシだった『パーフェクト・ブルー』を進めることにした。
私の「初めての読書」は、周囲の圧力によって再開されたのだ。
『パーフェクト・ブルー』の読了は、一両日の間に達成された。
ベストセラー小説の帯によくみられる、「スリリングな展開に、思わず徹夜で読破してしまいました」という謳い文句を、まさに体現してしまったのだ。
自分が信じられなかった。何故こうも、忌み嫌っていた活字が、自分の中にするすると入ってくるのだろうと思った。
当初苦労していた、ミステリ小説特有のスロースターターな展開を、自分はどうやって突破したのか、実はよく覚えていない。
だが、『パーフェクト・ブルー』を読了した後、どう事件が展開され、どう解決に向かったのか、きっちりと説明できるくらい、物語の流れをつかんでいた。
活字を、読めていた。
言葉という言葉が大気中に浮遊し、呼吸をするたびに一文字一文字が肺に、脳にエネルギーを与えるような感覚を味わったことは、今でも覚えている。
この作品を読んでから、私の娯楽の選択肢に、新たに「小説」が加わった。
自分の中にどんな変化が起こったのかは、今となってはわからない。
成長期の中学生には、身体的成長とともに、精神的成長も同時に促されることもある。
一つの体験が、人格にまで及ぶ深い爪痕を残すことは、そうそう珍しい話ではない。
まるで早送りで東京タワーが建設される様子を観るような変化が、心の中で起こるのだ。
私にとっては、「初めての読書」が、後の数年に及ぶ社会生活における、自己実現の助力になり得るような貴重な体験となったのだ。
事実、もしこの作品に出会っていなければ、私は活字を嫌い続け、漫画にばかり傾倒し、サブカルチャーのみを身にまとう人間になっていたかもしれない。
補足するならば、今、こうしてこの大学に入学し、書評のためにキーボードをカタカタと叩いている主体はいなかったかもしれない。
現在も漫画は好きだし、私はずいぶんたくさんのエンターテイメントを消費してきた。
しかし、小説を読まなかったとしたら、人生における職業選択の道筋は、もっとせまくなっていただろうと思う。
現在の私のアイデンティティを支える重要な要素は、「精神的成長」だからだ。
小説に限らず、映画や漫画など、物語だと思えるものには少なからず「分析」する姿勢を以て接してきた。
そして、そうした物語に対する主体的な態度が、アイデンティティ形成の根幹を担っている。物語が、成長を促している。
「読書する」ということは「成長」である。
言い換えれば、「小説は人生であり、蓋し成長である」。
小説には、著者の人生や価値観が、文字となってそこに刻み込まれているからだ。
私たちは、小説を読むことによって、様々な「人生」を物語という形態で、象徴的に享受することになる。
つまり、他人の人生を疑似的に体験することになるのだ。
人は、その中でいろいろな価値観に触れ、自己像と照らし合わせ、融合させることで、新たな人生を歩んでいく。
それこそが次のステップへの「脱皮」であり、「成長」であり、同時に「超越」である。
小説を読む前の個人と、読んだあとの個人は、同一のものとは言えない。
新たな価値観を纏った、新たな個人なのだ。
そうして得られた新鮮な変化は、何物にも代えがたい貴重なものなのではないだろうか。
漫画にも同様のことが言えるが、小説はこうした要素がより強いように思える。
小説が漫画よりも具体的な主体性を求めるからなのか、それとも小説が、抽象的な思考を研磨し、具体的な言葉へと昇華させたある種の歴史的遺産だからなのか。
正確なところは定かではないが、そう思った「私」が存在するということは確かである。
『パーフェクト・ブルー』に出会えたから、主体的な読書をするようになり、現在の私にまで成長できたと思う。
「初めての読書」はほろ苦いものだったが、後の人生の中核となるほどの影響を及ぼした。
「良薬口に苦し」とは、よく言ったものである。
私にとって、良薬とは単なるきっかけにすぎなかったが、それがなかったとしたら、私の人生はもっと薄っぺらいものになっていたと思う。
さて、読書感想文に追われていた少年はというと、夏休み最終日に、「初めての読書」の衝撃と感動の勢いにまかせて、迸る熱きパトスのごとき文章を原稿用紙に打ち付けた。
そして、満面の達成感を湛えて課題を提出した。
感想文を提出するは、活字を忌み嫌っていた少年ではなく、「一つの人生」を体験した「少年」になっていた。
後日、その文章は、どういうわけか「もうすこしがんばりましょう」との評価が下されたのだが、私の中には、確かな成長の証が、きら星のごとく輝いていた。
中学生の私と、今の私は異なっている。
一貫した生命体ではあるが、ほとんどの面で、異なった個人である。
当然だ。当然、人間は成長していく。8年の歳月の中、たくさんの事を経験し、たくさんの事を学んできた。悲しみがあった。別離があった。憎悪があった。羨望があった。後悔があった。挑戦があった。努力があった。喜びがあった。
13歳の眼に映る物語と、21歳のそれは、異なるのだ。それが成長のあかしだ。

村上春樹が、『海辺のカフカ』の中で、成長についてこう述べている。

「何かを経験し、それによって僕らの中に何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにある全ての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界が広がっていることに。そういうことがまったくないとしたら、僕らの人生はおそらく無味乾燥なものです。」

中学生のあのころ、感想文を書く片手には、コーラとポテトチップスが置かれていた。
しかし、こうして過去を振り返る今の私のお供は、インスタント・コーヒーとラッキーストライク、そして森博嗣著『詩的私的ジャック』。これもまた、ひとつの「成長」である。

 去年の2月に、『アヴァター』を観てきた。3D映像がすごい、すごいと言われていたので、流行りに乗っかった形で、行ってきました。一人で。レイトショーで。ほっとけ。
もう一年前になるのだけれど、このクラスの大作にしては、ノートにささっとメモをしただけでレヴューを書いていなかったので、この機会に、ということでここに書かせていただく。鑑賞してから時間がたっているので、新鮮な気持ちでレヴューできていないが、その分冷静な視点を保っていけると思う。

 世界興行成績第1位の座を10年以上固持してきた『タイタニック』のジェームズ・キャメロン監督作品。作品の目玉は何と言っても3D。もはや多くの人にとっては体験したことのあるものだろう。『アヴァター』は観なかったけど、『トイ・ストーリー3』で3Dを初めて体験しました、という人も多いんじゃないだろうか。
特殊な眼鏡をかけ、画面を見ることにで映像が飛び出して見える技術を映画に応用した注目の技術により、『アヴァター』を観る人々は、新しい時代の幕開けを予感したことだろう。壮大な物語をCGで作り上げ、3Dという革新的な手法を以て味付けした『アヴァター』は、衝撃以外の何物でもなかったと言える。当然、驚きが驚きを呼び、瞬く間にキャメロン監督は自身の持つ記録を『アヴァター』によって塗り替えた。トレーラーやCMなどで観る限り、ありきたりな手垢でまみれた「自然を大切にしましょうムービー」かと思っていたが、口コミや情報番組で絶賛されるところをみると、流石にこれは観に行かなければ、という気持ちになった。

この『アヴァター』で、一昔前のテーマパークで散見されたが、眼鏡をかけなければいけない手間と、技術的なコストに見合わないクォリティのためもあって、特殊な環境下での使用のみにとどまっていたこの3D技術が、ついに日の目を見た格好となったのだ。キャメロン監督はこの作品に構想14年、制作に 4年を費やし、独自の撮影技術を開発したり、作品世界の文化を一から作ったりしたという。並々ならぬ情熱である。
 公開当初よりその評判はうなぎのように上がっていったのだが、私がこの作品を実際に鑑賞したのは公開から2カ月ほどたった時期だった。
なぜかと言うと、レオマワールドという香川県のテーマパークでそのチープさ加減に辟易とした経験があったからだ。母方の実家がそのテーマパークの近くにあり、小学生のころ、毎年夏はそこに親戚一同で遊びに行っていた。ある年の夏、レオマワールド内に、3D技術を使ったアトラクションができた。それは単なる3Dのショートムービーで、確か宇宙恐竜を捕獲するスペースレンジャーがどうのこうの、という、今にして思えばちゃっちい物だったのだけれど、子供たちはみな興奮。3Dだぜ!3D!映像が目の前に飛び出てくるんだって!うげぇ!当時はやっぱり物珍しいもので、10分間の3D映像を観るためだけに2 時間並んだ。田舎の山奥にある、アスファルトだらけの遊園地内は馬鹿みたいに暑い。しかしながら子供たち、「うおー、恐竜が飛び出してくるんだぜ!」「ビームがブシャーってなるのか!」などとわけのわからないことを叫び合いながら、鼻血を吹きださんばかりの勢いで額を突き合わせてはしゃぐ。さあ我々の番がきた。いざメガネを装着。来るぞ来るぞ、と胸を高鳴らせて観た映像は、ちょっとチラつくノイズが入ったような2Dの映像だった。超平面。なにをどうしたらこれが3Dなのだ。時間泥棒。さっきまであれだけはしゃいでた子供たち、みな一様に能面のような表情でスクリーンを見つめる。そして、申し訳程度に映像に合わせてぷしゅうぷしゅうとむなしい音を立てて風が吹く。あの時のガッカリ感は、トラウマ物だった。そうした経験があったから、3Dはいやだったのだ。正直に言って、もう傷つきたくない!という、恋に敗れた乙女の心情。
加えて、一足先に『アヴァター』を鑑賞した友人から、「あれは流行らない」という呪いのような一言を聞かされていた。
しかし、高まる世間の圧倒的好評価。もう、自称映画好きとしては、観ないわけにはいかなかった。そういうことで、よくわからない緊張感を以て、遅まきながら入場券を購入し、鑑賞することとなった。

3D眼鏡を渡された瞬間、緊張と不安はピークに達し、いよいよもって眉間のしわが深く刻まれるとともに、私の鑑賞態度は硬化していった。映画を観るときはなるべく先入観や前評価を排除するのだが、今回はそれが難しかった。フラッシュバックするは、レオマワールドの想い出。ああ、俺はまた、3Dの幻想に純真な心を引き裂かれるのだろうか。ああ、俺は、次にこの心が失われてしまったら、もう立ち直れないかもしれない。ああ、俺はこの映画を観た後、シネマエクスプレス(新作映画予告)が一番おもしろかったなって言うんだ。そう思いながら、スクリーンに映し出されるキャメロンの名を見た。
 結果から言ってしまうと、その不安の半分は当たっていて、半分は外れていた。
期待の3D技術は、確かに驚くようなものであった。画面が前に飛び出すのではなく、奥にバァーッと広がっていくがゆえに、作品世界に今までにないくらい没入する感覚を味わえた。感性が、映画の世界に投入されていくのだ。そこに展開される雄大なパンドラの自然は圧倒されるものだった。宇宙船の細部は目の前にあるかのように明確で、樹々は、手をのばせば千切れそうなほど近い。酸素濃度を検知する身体機関は、錯覚を起こすほど。火薬の爆発は息をのむほどリアルで、本当にのどが焼けるような興奮を覚えた。銃撃の衝撃に飛び散る火花、振り下ろされるハンマー。映像にびっくりして、何度も手で目の前を覆って防御しようとしてしまったのが恥ずかしかった。ホントにこれ、スゴイもんですぜ。レオマワールドの亡霊は、跡形もなく雲散霧消。ほな、ばいなら、という風情で消えていった。やったね、3D万歳と、手のひらを返して喜んだものだった。

が、しかし、未来を予感させるかと言われれば、個人的にはそのような気はあまりしなかった。確かにいいものだし、これから先、もっと凄い作品が現れてくるかと思うと、結構わくわくする。だが、ですね、それにしても、3D作品は、作品というフレームとは別の次元で、作品に集中できない要素が多すぎると思う。というのは、技術的な問題だ。どうしても、眼鏡をかける、というのが抵抗があるのだ。
眼鏡を通すことで画面が暗くみえてしまって、なんとなく居心地の悪さを感じる。普通の眼鏡とは違い若干重い(劇場によって種類は異なるが)ので、どうしても装着感と違和感がぬぐえず、せっかく3Dで作品世界に没入しているのに、ふとした瞬間に装着している眼鏡が意識され、「あ、おれ、映画を観てるんだ」という現実に引き戻されてしまう。つまりは、3D技術は、観客を作品世界に没入させる導入の技術でありながら、同時に技術的限界ゆえに、観客に作品のフィクション的性格を自覚させてしまうメタフィクション装置であるということなのだ。加えて、映像が素早い動きになると、画面がちらつき、非常に観にくくなるし、視野が狭くなる。画面左半分を観ていると、右半分がちらついてよく観えない、ということが結構あった。こちらも現実に引き戻されてしまう要素だし、長時間3Dを観ていると気分が悪くなる、という感想も、大いに説得力がある。3Dを最大限活かせるのはアクションのような迫力のある画であろうから、これは構造的な欠点ではないだろうか。友人の行っていた通り、観る者全てがその技術に感動し、未来を予感するものではなかったと思う。
 また、これからの映画産業を考えると、この技術が首を絞めることになりはしないか、とも思う。
3D作品は現段階では映画館でしか観れないがゆえに、映画産業にとっては収益増のまたとないチャンスであろう。広告収入の面から考えても、話題性を付与できる3D作品を各制作会社こぞって制作するであろうし、3Dが3Dを呼び、やがて3Dが世界で支配的となることも予想できる。その世界では3Dこそが正義であり、それに適応できないものは、制作者、消費者かかわらず淘汰されていくであろう。
大人のラブ・ロマンスを作りたいが、3Dにする必要がないので収益は見込めず、制作は断念せざるを得ない。また、とある3D作品のストーリーには期待しているが、3Dを観ると強烈な吐き気と死にたくなるような絶望感を味わうので、観に行くことはできない。そのような事態が起こってしまうのではないか。そうなると、求める者には等しく開かれる娯楽産業としての映画は窒息しかねない。
実際にはそこまでトントンと3Dが支配的になるほど世界は単純ではないだろうが、この技術によって映画産業自体が揺り動かされたことは事実であろう。確かに3Dは革新的で、『アヴァター』はそれを抜きにしても、非常にシンプルかつ示唆に富んだ、よくできた普遍的な作品であった。しかしながら、この作品のヒットで3Dが支配的となり、それによってこの先の多様性が排除されることになれば、それは悲惨な事態というほかないだろう。