樫内と釣り
釣り好きの父、一緒についていくのが好きだった母、魚を釣るのがかわいそうという弟。
記憶のないころから、釣りにつれられ、物心をついた時には釣りが好きになっていた。
弟は、一瞬バス釣りを一緒にしたことはあったが、続かなかった。
釣りしか知らなかったし、釣り以外に興味がなかった。小学校から帰ってきたら近所の川・池で鮒、コイを釣った。
定期的なおこずかいはもらっておらず、決して貧しかったわけではなく、使う場所がお菓子屋さんしかなかった。それでもビックリマンシールや、ほか、流行りなどはあまり知らなかったから使うものもなかった。イカす文具セットが欲しかったくらいか。
田舎ではないが、学校区のギリギリのところに住んでおり、子供会やお祭りでの友達の交流もなく。いじめられていたわけでも干されていたわけでもはなく、電車に乗って友達の家に遊びに行ったり、自転車こいで行ったりと。近所に同じ年代がいなかっただけで、近くにマンションができた時も同年代は女子だけだったか。釣りが好きな友達はいたが、流行りについていけないので、その手の友達がいなかった。だから情報がなかった。話が脱線。だからお小遣いをもらって、練餌を買って川・池ばっかり行っていた。
ある日、同じ校区だが、きっかけは忘れたが友達と川に釣りに行った。釣り目的ではないが、先輩やら後輩がウロウロする川で釣りをしていた。どうやら子供会がある公民館?(知らんけど)沿いの川だったようだ。その時に橋の上から、「樫内でも釣れるんか」と、その頃は怖い年上の人としか知らなかった人に声をかけられたのを今も覚えている。
一番釣りしてるわと言いたかったが、怖いからいうのをやめた。なんて答えたかは覚えていない。
そこから中学生になりブラックバスが釣れると情報を持ってきたのが、藤井君だった。
中学から高校までバス釣りばっかりしていた。ここで加わったのが西口君だった。彼らとは今も交流があり思えば長い付き合いだ。
ブラックバスを始めた頃
池・川のいろいろなところへバス釣りに行った。自転車があればどこでも行ける気がした。今の子供たちにはありえないことだ。
親が起きる前、真っ暗な時間に出発し、何時に返ってくるかわからない。私も親になって子供がそんなんで出て行ったら心配で仕方がない。そのうち返ってくるやろと親父は言ってたらしい笑。その頃は子供の価値は低かった。今は絶滅危惧種なので大事にしなければならない。冗談です。
今みたいにインターネットも普及しておらず、釣具屋に行って釣り方を聞いたり。その頃から、紺甚釣具店に通っていた。店長の母さんがよく接客してくれたものだ。ロッドを見ていたらご予算は?と聞かれるが、釣り方など情報はなかった。今思えばその頃店長はどこにいたのか。シビックに乗って走り回っていたのだろう。
主な情報源は藤井君だったな。今から思えば、ほぼガセネタだったな。いい思い出だ。昔は民報でラリーニクソンが取り上げられた。ほんの15分ほどだったが、それを見てミノーのトゥイッチを覚えた。年を取るにつれ、行動範囲が広がり津風呂湖に行くようになった。これも藤井君だ。悪そうな先輩に送ってもらうといい、ウーファーガンガン、ブラックライト光まくりの、真っ白なふさふさ毛皮のワゴン車に乗せられ深夜に出発。もう山に捨てられると思った。到着したらロッドティップが折れていたが、何も言えなかった。これもいい思い出だ。
バストーナメントに
きっかけは忘れたが多分、藤井君だと思う。紺甚釣具店のショップトーナメントに参加した。誰かに送ってもらって言ってたのだが、どうやって行ってたのか記憶がない。手漕ぎだったと思うがエレキを使ってた記憶もある。それは18歳になって、バイトして買ったものか、このあたりの記憶はない。この頃に増田師匠に出会っている。いろいろな方とも会ったのがこの頃。その後琵琶湖につれってくれた方もこの頃に出会っていた。結婚して引っ越しし他ご近所さんともこの頃であっていた。
自分は少しくらいうまいと思っていたが、まったくもって入賞できないどころか、全然釣れないし。バイト代をすべてつぎ込んでいたので、道具はいいのを持っていた。おまえ道具だけええなと言われ、釣れたバスをポイっとほった。投げたらあかんと怒られた。誰にかは言わないが(笑) だいぶ嫌になっていたところに琵琶湖に誘ってくれた方がいた。人も優しくバスも釣れるし、僕は琵琶湖で釣りをすると津風呂湖から旅立った。今から思えば完全に逃げていた。琵琶湖でもトーナメントに参加したが、まったくもって釣れないし、今から思えばレベルの差がありすぎるとわかるのだが、当時はそれすらわからなかった。
何回やっても無駄(笑)今ならわかるが、当時は相当バカだったな(笑)DVDや動画がネットで流れ出したころ、真似ばっかりしてもそんなに釣れない。たまに釣れる時もある。そりゃそうだと今ならわかる。下野プロのガイドにのった。ガイド連続50アップ記録を止めた男が私だ(笑)これもいい思い出。バス釣りの見方はだいぶ変わったがそれも人まねだった。
何をやってもあかん子、それが私だ。この頃、ちょうど転職スパイラルに入った。親からは、趣味を仕事にしてはいけないといわれていた。それはリフレッシュできる瞬間がないからだと。それもそうだ。でも転職して釣り具メーカーに入った。1年で倒産した。(笑)そして製造業に行った。おだてられのぼせて、出来もしないはったりを言いながら仕事をした。偉い人が行く研修に参加させてもらい、馬鹿が調子に乗った。そして自分ができないことを人のせいにし、社長ともめた。ふてくされて仕事をした。今から思えば100%私が悪い。たまに会社の前を通るのだが、謝りに行きたい気持ちすらある。でもその時の経験がのちに役に立っている。上田社長。申し訳ございませんでした。
ふてくされた私は、別の目標を設定した。それは釣り具メーカーが潰れたのちに、4人で起業しこちらも空中分解した事業の再開を夢見た。1人でできないものは4人でできないし、4人でできなかったことは1人でもできない。できる人はどんな環境でも達成するのだ。今ならわかる。知名度が必要と思った私は、JBプロを目指したのだ。この選択は今思えば笑えるし、恥ずかしいノートは全部捨てた。中学生にすることを30歳前にやったのだ。ほんとバカ。
NBC・JBトーナメント
ふてくされた仕事をしながら、夜はアルバイトをし、事業のまね事をしてトーナメントをする。仕入は好きだが、販売は出来ないと貯金はほぼ溶かした。ほんとバカ。トーナメントにも費用がいるが、NBCはまぐれで優勝したが、JBは本当に勝てなかった。
この頃から、レベルの違いの意味が解りだした。それを埋めるために頑張ってみた。でも本質はわからなかった。釣ってる人の真似をして、試行錯誤してでも無理なもんは無理だ。これも今になってはわかる。
この頃から、自分は出来ないことを自覚した。何かを達成する経験がない。情報を集めて理解し活かした経験がない。誰かのためにと思うが、一切そんなことは思っていない。自分をよくよく理解した。事業のまね事は大赤字を残して私の趣味の部屋となった。さぁ再就職だとこのあたりの切り替えは早い。そして忘れることができる。これが最大の能力だ。
やることは、仕事(現職)とトーナメントに絞られた。私は複数のことは出来ない。このことにも気づいた。集中力は人並み以上だが、持続力はない。コントロールも出来ない。何かが乗り移ったときのみ発動する、ほぼ使えない人間が私。(笑)
だから多くはしてはいけないのだ。JB3年目、今期失敗したら終了と妻の財布から金を抜いて出発した。もちろん揉めた。
そして優勝したのだ。炎天下の鉄桟橋の上で一人で準備をした。誰とも話さずトーナメントのことだけを考えて。
頭の中で、何かの順番が変わった。自分ができること、釣れる可能性のある釣り方、自分が釣りたい釣り方、トーナメントエリアの使い方、これらが、頭の中で並び変わった。ここで得られた経験は、初めての成功体験となった。一度成功体験が得られれば、釣りにも仕事にも大きな変化が出だした。まだまだ先は長いが、結果の出し方のイメージが初めてできたのだ。
釣りは上手いのに結果にならない選手がもいる。私はそれを戦い方が間違っていると思っている。持論だが。釣りも仕事も一緒。
仕事がどうでもいいと思っている人は釣りもできない。釣りが適当な人は、仕事も適当。人間そんなもんだと思っている。
目標の変化
事業のまね事が目標から外れた時、別の目標が湧いて出た。
それは、小学生の頃に言われた「樫内でも釣れるんか」という一言。いまだに根に持っている。もちろんいい意味で。
釣りで日本一になってやると思った。はっきり言って、現在の釣りを職業としている方や、真のトーナメントプロに実力で勝てる気なんておこがましくも思っていない。まぁ一部に位は勝てると調子乗っているところもあるが(笑)
どうやったら日本一と言えるのかを考えた結果、私が現世で達成できるかもしれない最大値
それが、「クラシック優勝」と「西日本ファイナル優勝」いわば、単年度であっても、日本一と西日本一という定義はある。
参加してない上手い人はもちろんいるが、出場していない以上、その限りではないと思っている。自分勝手な物差しだが。
それでいいと思っている。誰にも迷惑かけないでしょって。
私が年取って、運よく老人ホームには入れたら、若い介護士の女の子に散歩に連れってもらってご飯食べさせてもらって(笑)若い男性介護士がバス釣りしてる子つかまえて自慢したるねん。僕 日本一なったって。クラシックって知ってるか、調べてみって言いたいだけ。
それが、今のモチベーション。その頃の介護士はAIロボットになってるかもしれないが、それでも今はそれでいい。
現世の最大の設定値。達成できないくらいがちょうどいい。出来なかったら来世の樫内に頑張ってもらいましょう。もう一度人間に転生できるように、徳は積んどきましょうという穏やかな生活に満足している。
これが、樫内と釣とトーナメントである。 以上