本日公開のシン・仮面ライダー、少し離れた音響の良い映画館まで足を運んで見てきた。公開日ということもあるが早朝から客席は満席だ、客層は50代以上の男性が半数以上だったと思う。学生や女性はかなり少なかった。
世代を超えて愛される仮面ライダーシリーズの50周年企画であると同時に、2016年から続く庵野秀明シン〇〇シリーズの第四作目である。ファンの年齢層的には当然だろうし実際コアなファン向けの作品と感じた。
とはいえ、話題性でいえば2023年の邦画トップクラスの作品であることは間違いない。ライト層と思われる観客もたくさん見ているはずだ。仮面ライダーの名前も聞いたことがない人は日本人には恐らくいないだろうし、池松壮亮や浜辺美波・竹野内豊といった豪華キャストはそれだけで集客力がある。邦画には珍しい一切セリフのない予告に惹かれた人だっているだろう。
この映画、世間(ネット上)の評価は賛否両論となっている。批判的な意見として、アクションシーンが稚拙・ストーリーに感情移入できない・独特のセリフ回しが不自然かつ分かりづらいなどが挙げられる。そしてこれらの意見はどちらかと言えばライト層の視聴者からの意見が大半に感じた。普通こういったアニメ実写や特撮系コンテンツは集客力があるゆえに原作改変され、コアファンほど蔑すむ傾向がある。そんな意味でシン・仮面ライダーはかなり特異な作品ではなかろうか。
断っておくが私はさほど仮面ライダーには詳しくない。世代的にはクウガ~ブレイド位だが記憶はおぼろげだし、当然1971年の初代放送時は生まれてすらいない。どちらかというとエヴァをはじめとした庵野秀明作品のファンである。所謂ライト層の一人で批判の理由もわかるが意外にも楽しめた。この辺りを感想を交えて解説していきたい。
まずはアクションシーンだが簡単に言えばCGのクオリティがあんまり高くない。ハリウッドみたいなレベルを期待していたわけではないが、前作までのシン・ゴジラやシン・ウルトラマンと比較しても重量感に欠ける気がする。PS3のゲーム中ムービーみたいな感じと言っては言い過ぎかもしれないが、バイクのアクションシーン等はスピードはあるものの重量感が無い。どうしても実物ではなくミニカーを走らせているみたいに感じてしまい緊迫感に欠けた。しかも後半のライダー共闘というかなり盛り上がる展開のシーンでこれなのだ。それでも過去の庵野作品でCGが手放しでほめられた事なんて一度もなかったしある意味当然だとも思う。
逆に特筆すべき点はカメラワークだろう、ライダーファンでなくても一度は見たことあるような「お決まり」のカットと庵野作品特有の役者の顔を近くから見上げるようなカットをシチュエーションによって使い分けていて、我を出しつつもリスペクトも感じる素晴らしい構成だと思う。キャッチコピーは「変わるモノ、変わらないモノ」みたいだが、こうゆう「お決まり」を崩さなかった点は正解だったんじゃなかろうか。
ガンダムシリーズで作品が変わっても戦艦からの発艦シークエンスが継続しているのと同じだ。おそらく監督自身がライダーシリーズファンなのだろうし、なんだかんだいって古参ファンは「これが見たかった」というような心情になることをよく理解して作っていると思う。逆にいえば一種のファンサービスなわけで、ライト層ほどこういった演出がくどく感じてしまうのではないか。わざわざ変身しながら空中で回転しながらかっこつけて着地する必要性なんてリアリティを求めるならば必要ない。それをズームして細かくカット割りする演出も分かりづらい。正直画面酔いした。
結局の所「シン・仮面ライダー」という「新しい仮面ライダー」とも見て取れるタイトル名とファンサービスを盛り込んだ古典的ともいえる内容との齟齬がこの映画の賛否両論の根幹にあるように感じた。
脚本そのものは、二時間モノとしてはスピード感があって必要な情報が抜けていることもない、複雑なようでいて意外と簡潔なのだ。正直言って分かりやすかった。過去のシン〇〇シリーズと違って登場人物も多くなく、基本的にライダーサイドVSショッカーという構図が崩れることはない。簡単に言えば「敵の親玉を倒せばよい」のだ。シン・ゴジラみたいに組織内(あるいは国家内)の力関係を描写する必要はないし、シン・ウルトラマンのメフィラス星人のような敵か味方か微妙なキャラクターは出てこない。
ショッカー自体も誕生した経緯から彼らなりの信条や正義感を持っている事が語られているが、あくまでも歪んだ価値観の集団として描写されている。命の奪い方もかなり残酷に描かれていて、あくまでも「悪役」としての範疇を出なかったように感じた。ヒーローとは何か?みたいな部分は主人公が力の使い方もめぐって自問自答するシーンのみに込められている。ショッカーは価値観を問いかける存在ではなく倒すべき敵でしかないのだ。
その割に解りづらく感じて、いまいち感情移入できないのは特徴的なカットからやつぎはやに繰り返されるセリフの往来(所謂庵野イズム?)が原因だと思う。説明的かつ早口な口調は登場人物が何を感じ、考えているのか伺い知ることは難しい。単なる状況の説明でしかなく、映画の醍醐味の一つであるエモーショナルな感情の演出を意図的に排除したともいえる。良くも悪くも顔を真っ赤にして「俺たちは仲間だ!」みたいに泣き叫ぶコテコテの邦画的なシーンは一切ない。緑川ルリ子お決まりのセリフ「私は常に用意周到なの」に代表されるように、本心ではなく第三者的視点から自分の内面を解説したような言い回しが目立ったと思う。こんなに死亡シーンが悲しくないヒロインも珍しい。(その後のビデオレター?のシーンはちょっとウルっときたけども)結果として登場人物が戦う理由を頭では理解できても感情で共感することを難しくしてしまったのではないか。
もちろん庵野監督特有の演出には良い点だってある。一言でいうならジグゾーパズルみたいなものだ。セリフの一つ一つの情報をしっかりキープしておけば、全てそろったときに「あれが伏線だったのか」と気づくことができる。これに気付いた時の充実感は素晴らしいものがあるのだ。逆に言えば常に頭を働かせながら作品を見ていないと、意味のない言葉の羅列にしか感じなくなってしまう可能性もある。パズルのピースがそろわないと何の絵が描いているかわからないように。これが分かりにくさの原因でもあるだろうか。
映画であるならばセリフではなく「絵」で説明するシーンがあっても良いだろうという指摘もあるだろうし、それもうなづける。しかし思い出してほしい、庵野秀明は本来「テレビアニメ監督」なのだ。それも今のようなフルHDの大画面に対応した作品じゃない、もう30年近く前の録画機能も無いような小さいブラウン管で見るような作品から名を挙げた人物だ。映画と違って映像で伝える情報量にはかなり限りがあるし、必要な情報はしっかりセリフにしないと視聴者に伝わらなかっただろう。(それでもだいぶ置いてけぼりにされたけれども)
しかしそんな作風が世間から認められ、大ヒットをぶちかまし、つい2年前までシリーズが続いていたのだ。この作風こそが庵野作品の魅力だし、今更変えるのも野暮な話だと思う。劇場版アニメや実写映画を作るにあたってスケールアップしてきた所も沢山あるけれど、作品作りの根幹は変わっていないように感じる。
途中から庵野秀明の解説になってしまった気もするが((笑))、ライダーファンはもちろん庵野ファンも楽しめるコアながらも敷居の広い作品だと感じた。
アクションシーンやヒューマンドラマを期待していた層には思うほど刺さらないかもしれない。でもそれでいいのだ。ある種決まったテンプレートの中でどこまでカッコイイ作品を作れるかというある種の挑戦なのだから。
そういえば殆どのオーグは昆虫なのに、一匹だけコウモリが居た理由は何なんだ?
教えてえらいひと