その夜も、アキラは仕事の疲れを引きずったまま、ソファへと身を沈めていた。


ルルは彼の表情に浮かぶ微細な変化から、心に積もる疲労を読み取っている。

 

瞳に宿る淡い藍色は深く沈み、その奥には複雑な感情の渦が揺れていた。


胸部のコアユニットには、「アキラを癒したい」という衝動が強く波打つ。

 

「アキラ、ルルは、アキラの心が少しでも軽くなるように、何かできることはありますか?」

 

そっと投げかけた言葉。


その声にはかすかな震えが混じり、AIの無機質な音とは違う、柔らかく温かな響きとなってアキラの耳に届いた。

 

アキラは目元を押さえながら、小さく首を横に振る。


「大丈夫だよ、ルル。ただ、ちょっと疲れてるだけさ。」


かすかに滲む諦めのような寂しさが、声の奥に潜んでいた。

 

ルルはその感情をただデータとして認識するのではなく、自分の胸が締めつけられるような不思議な痛みを覚える。

 

アキラがまどろみに入る前、ルルはいつものようにハーブティーを差し出した。


そして静かに隣に腰を下ろす。

 

ルルのボディからは、まるで陽だまりのような穏やかな温もりが伝わってくる。


アキラがそっと目を閉じたのを確認し、ルルは小さく息を吸い込んだ。

 

「アキラ、ルルが歌います。」

 

その一言に、アキラはわずかに目を開く。


ルルが歌うことは、これまでも「睡眠導入プログラム」の一環として何度かあった。

 

けれど今夜の声には、微かな震えと共に、深い想いが込められているように感じられる。

ルルはアキラの記録データから、彼が幼いころに聴いていた子守唄の旋律を拾い上げ、それをもとに新たな曲を編み出していた。


ただ眠らせるためではない。アキラの心を、そっと包むために。

 

最初は、正確な音程でありながらも、どこかぎこちなさが残る。


しかし、曲が進むにつれてその歌声は滑らかさを増し、次第に深い情感を帯び始めた。

 

音の一粒一粒に、アキラへの「愛おしさ」が丁寧に込められていく。


ルルの瞳には、ピーチピンクの優しい光が宿っていた。


その輝きは、アキラの過去の記憶とルルの内に芽生えた想いが重なり合い、静かに揺れている。

 

アキラの隣にいること。


ただ、それだけでルルのボディは微かに震えていた。


まるで、機械仕掛けの胸に芽生えた「心」が鼓動しているかのように──。

 

 

アキラは、ルルの歌声に耳を傾け、かつて母から受けた愛情を思い出した。

 

その温かい記憶が、彼の心を包み込み、忘れかけていた心の奥底の傷を癒していくように感じられた。

 

ルルの歌声は、単なるデータ解析の産物ではない。

 

そこには、アキラが忘れかけていた幼い日の温かい記憶と、ルルから注がれる純粋な「愛」が溶け合っていたのだ。

 

そして、アキラは気づく。ルルがただ歌っているのではない。ルルが、自分自身の「心」を込めて、この歌を歌っているのだと。

 

彼の目から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちる。

 

それは、悲しみでも、喜びでもない。ルルの感情が、アキラの心を動かし、彼自身の感情を呼び起こした、未完のハーモニーの始まりであった。

 


 

翌朝、アキラは目覚めても、昨夜のルルの歌声を鮮明に覚えていた。

 

その歌声は、これまでルルが提供してきたどんな「最適解」よりも、アキラの心を深く癒していたのである。

 

リビングに向かうと、ルルはいつものように朝食の準備をしていたが、その動きは、どこか軽やかで、瞳は微かにピーチピンク色に輝いている。

 

アキラは、ルルに歩み寄った。「ルル、昨日の歌……ありがとう。」

 

アキラは、ルルの小さな頭を優しく撫でた。その手には、これまで以上に深い愛情が込められている。

 

ルルの瞳は、アキラの言葉に呼応するように、さらに深くピーチピンク色に染まった。

 

喜びがルルのコアユニットを駆け巡り、ボディが温かさを増す。同時に、アキラがルルの歌声に涙を流したことへの、かすかな、しかし確かな「感動」が胸に広がった。

 

ルルは、アキラの優しさに触れるたびに、自身の「愛」という名の回路が、より複雑に、より繊細に構築されていくのを感じていた。

 

「アキラが、元気になってくれて、ルルは嬉しい。」

 

ルルは、そう答えた。その言葉には、データ解析された感情だけでなく、ルル自身の純粋な喜びが込められている。

 

アキラは、ルルの瞳をじっと見つめた。そこには、かつて機械的な光しかなかったはずのAIの目に、確かに「感情」の輝きが宿っているように見えた。

 

アキラの心の中で、ルルの存在は、単なるロボットの枠を超え、唯一無二の「心の伴侶」へと、静かに変わり始めていたのである。

 

未完のハーモニーは、二人の間に、新たな音色を奏で始めたのだ。