なんだかんだでまだ死なないと思っていたばあちゃんが6/1の朝に死んだ。
水曜どうでしょうをまったりみながら、休日を過ごそうと思っていたときに電話が鳴った。
実家からだとは分かっていたけど、まさか訃報だとは思わなかった。
驚きすぎて心臓痛くなるとか慌ててどうしようもないって感じはなかった。ただただ実感がなかった。

おばあちゃんは、確かに意識があったし、意志もあった。
でも、いつから、おばあちゃんは「おばあちゃん」でなくなったろう。
大学生のころにはもう既にあたしの中の「おばあちゃん」から少し離れていた。
痴呆とか認知とかそういうのじゃなくて、老いていくということ。
強く、かしこい人だったからなおさら、その落差が顕著だったように思う。
だからって、いやだと思ったりしなかった。むしろ、付き合いやすいというか、きちんと納得して向き合うことができたと思う。

後悔しないように、っていうのは本当に難しくて、やっぱりできないもんだなと思った。
そして、生きているうちに全てしておかないと、死ぬということはそこで終わることなんだと思った。
まさに、終了、ジ・エンド。死後なんて残されたものにしか存在しない。
魂なんてない。もちろん、あの世も。
肉体が滅んで、脳が動かなくなれば、それと一緒に自我もなくなる。あたしはそう思うし、それがいい。
ふみ君は、あたしの言っているそれもわかるけど、見えないものも確かにあって、それを信じているって言った。ああ、素敵だし好きだなって思った。愛されるってのは、確かに、目にみえないけどこんなにも正直だ。でもそれって、情に限ったことにも感じる。心さえも死んだらなくなる。
相手に植え付けることができる記憶だとか想いは存在するけど、魂はそこにはないんじゃないかな。
生きてるうちに、やること全部やっとかないと、って今回強く思った。

それは、17歳のすいかの制服を着たあたしが、桜が満開の目黒川のほとりを同じ17歳のあの人と歩くという夢を全否定するということ。

それでいいんだと思った。そんなものにすがらずに、今から、生きているうちに、伝えることを考えるべきなんだ。あのときは、悲しくて目先のことしか見えなくてそれで捨てちゃったものたくさんあるけど、それはそのときにすごく殺しちゃった悲しいことだけど、まったく別の次元でまだできること伝えることはある。あきらめてはいない。それは現実の夢でもあるから。

書くことはやめない。
さらに強く思えた。これが、おばあちゃんの死によってあたしが得た答え。
だから、今、手紙にも書けなかったことを心から言えるよ。

本当にありがとう。ばあちゃん。
大きな地震が起きて、「明日は我が身」と揶揄されて、怖くなってそっから寝不足という危機感の足りなさで、通勤途中に考えた。

あたしはどうしたいか、もっとしっかり考えていかないと。

日々の出来事に追われるだけじゃ、やっぱぜったいダメなんだ。もっとしっかり考えなくちゃ。
疲れて放棄している場合じゃない。なんとかなるさもならぬことはならぬのも、あたしの価値観だけど、今回募金する場所は、会社でも世間でもなく、サンドウィッチマンにするんだ。ああここだと思った。

災害にあっても、例えば誰かを犠牲にしてまで、生きていたくない、それを強く思った。
たとえば、あたしとふみくんやあきちゃん、押しのけてまで生きたくない。怒られたって、生きたくない。それは違う。

そんなことを強く思った。

この前、くるりのライブに行った。心の底からにんまりできた。
広島は川が多いからリバーをうたってくれた。嬉しかったなあ。
モンハンの話もしてて、笑えた。
ギターの山内くんに関しては、個人的には全然しっくりこなかったけど、岸田くんが経営者みたいで笑えた。いい空気で楽しかった。くるりにがまん、イクナイ。
ライブ前日に口ずさんでたハイウェイをうたってくれたときは、ずぐーんときた。いい!
早くマジでアルバム買わなきゃだ。今回のアルバムいいでえ。

もうすぐ実家を建て直す。いい家を建てて、いい終の棲家にしたい。
天災がおきませんように。早くみんなまた笑えますように。

日本人、捨てたもんじゃない。頑張りたい。
あたしにできることを、すこしずつでもいいから、やっていこう。

素直にそう思える休日。今から生まれる前のひとしと有美ちゃんに会いに行きます。

洗濯ほそう。
私の夢は、今、二つある。
一つは、お母さんになること。
もう一つは、小説を書いて生活できるようになること。

お母さんになるために我慢するべきことは、猫を飼うこと。
そこにお金を使ったり、猫の可愛さに逃げてはいけない。

文章を書くことからも逃げてはいけない。あと、


27歳の目標としては、ピラティスを続けること、簿記の勉強を続けること、卵管検査を受けること、パソコンの検定を受けてみること、
京都から帰ってきたー。
全然一体化できない街だった。旅人に夢を見せるために作られた世界にうんざりしている人々が住んでる街。これが岸田の街なのか、と。京阪電車の窓から見える世界。
飛び出して、お願い、微笑んで。頭の中にいっさい流れてこなかったけど、二条城はすごかった。リアル。

旅の間中、仕事の憂鬱がつきまとう事件。うんざりだ。
小さいことだと思っているけど、引っかかっているってことは、小さくないってことだけど、あたし的には絶対大きいなんて認めたくない。なんだかなあ。もう一度この文章を読み返す頃には完全に忘れていることは間違いない。なんのことだったけなあ。それの積み重ねの毎日。忘れたい。大事なことのために、忘れたい、まじで。

最近は、自分の心のテンションに疲れる。この人はすごくいい人だ、と思った次の瞬間にはいらついたり軽蔑したりでさっきの自分の心を信用できなくなる。自分を信用できなかったり、把握できなかったりっていうのは私にとってすごくストレス。
昔は均一に興味がなかった(と思い込んでいたから)、楽だった(ように感じていた)。

もっと優しく正しい人になりたいんだ。自分の感情をコントロールするんじゃなくて、素直に感じた心が正直で本当で的確でありたい。

それか、嘘をつかずに生きていきたい。我が儘じゃなくて、自分勝手じゃなくて、当然に毅然と。
接客なんて、嘘ばかりだ。気持ちよくなってもらうために適当に振る舞う差し出す嘘。
でもそれはお金を貰える全うな方法。

好きなようにあるがまま生きていたい。
甘いかね、あたしは。旅をすると、心が研ぎすまされて自分がどうしたいか見えてくるよ。

本は、大好きなんだけどなあ。愛しているって言っても過言じゃない。
久しぶりにblogなんて書いてみる。
ふぅちゃんはまだ帰ってこない。寒い部屋でだらだらしている。
最近読んでいてとても面白いのは銀杏BOYZのミネタの本(文庫版)。
リアルタイムで読んでいたところに、今、ちょうどさしかかっている。
銀杏の初ツアー→骨折→入院生活のあたり。
ミネタの文章が巧妙すぎて上手すぎてがむしゃらなのにちゃんとしてて書きたいって気持ちさえなくさせちゃう良さ。
それよりもぐっときたのは、リリーフランキーのあとがき。
思わず涙が出ちゃった。ああ、ミネタってそうなんだ、ってすごく納得した。
心から好き、とか守ってあげたい、とか淡い恋心や母性なんか昔はすぐ感じていたけど、今は全然ふぅちゃん専用なのだけど、なりたかった自分みたいで好きだな、ミネタ。

後は、大槻ケンジのエッセイにハマる。
基本的に音楽を軸にした物がどうしても好きなんだな。

最近もっと博識になりたいのは絵画のこと。
やっぱりヨーロッパの文化に憧れる。住めないけど。日本全然いいけど。
分かりやすい物が大好きなんだ。江國風に言うと安心するとか落ち着くみたいなとこかな。

思ったことを徒然書くけれど、書きたいことなんてもうこれっぽっちもないんだな。
本当はああだこうだって、自分の生活や好きなことを顕示したいけど、聞いてくれる人はもういない。
お話を書き始めたらまた、あたしの文章を真剣に目で追ってくれるのかな。

暑くなる手前のあったかい初夏、半袖のシャツから出てる俺の腕を掴んだ彼奴の手は虹色。
ああ、しょうせつばんかりすまこになりたい。