弔問に行かれる時、金封の上書きを何と書かれますか?

 「御仏前」「御香資」「御香典」「御香奠」......

 長崎県島原地方では「目覚(めさまし)」と書かれるそうです。熊本県の一部でも、この語を用いるようです。

 地方によっては、ご遺体のある間は「御霊前」で、お骨になると「御仏前」と聞き、「浄土真宗でしょ...?」と問い直したこともありましたが、一般的にいう「香典」を、島原では「目覚」と表記するのです。

 なぜ、この語を用いるのか。およそ三つ意味があるようです。

 ①亡くなられた方に、もう一度目を覚ましてほしい。目を開けてほしい。

 ②縁者が、しっかり目を覚まして、お灯明(とうみょう)・お香の番をせよ。

 ③亡き方をご縁として、残された者が、我が"いのち"のありようと往()く先をしっかり学び、目を覚ませよ。

の意味で使用されているようです。

 ①もう一度目を覚ましてほしい。

 残された者の想いとしては、大変よくわかります。

 特にお子さまを亡くされたお母さんの想いとして、この言葉はよくわかります。

  子は死にて

  たどり行くらん死出の旅

  道知れぬとて

  帰りこよかし

と、和泉式部が詠()んでおられますように、死出の旅に出たが、道がわからないから、と言って帰って来てほしい。どんな理由でもいい、もう一度目を開けてもらいたい、という切なる親の心です。

亡き人に大変失礼

 ②目を覚まし、眠らずにお灯明の番をせよ。

 この言葉の前提には、亡き人が旅立って行き、その世界が暗がりであるため、灯(あか)りをつけてあげなければ行き先がわからない、という考え方があります。

 これは弔電によくある「ご冥福」と同じで、亡き人に対して大変失礼であるだけではなく、如来さまをないがしろにしている考え方です。

 「冥」の字は、日と六とで十六日と読み、十五日が満月で一番明るく、十六日から三十日へとどんどん暗くなっていき、しかもワかんむりは蓋(ふた)をするという意味ですから、亡くなった方は暗闇の世界、つまり"いい所"へは行ってない、せめて灯りをつけて...という発想です。

 ③残された者が"いのち"に目覚める。

 私の"いのち"にも必ず終わりがあります。

 しかも、「老少不定(ろうしょうふじょう)」といわれるように、年齢の順に死んでいくわけではありません。お互いに、どのような縁によって、いつこの人生を終えるのかわかりません。

 しかし、阿弥陀如来はこのような私の"いのち"のありさまを見抜き、決して空(むな)しいままにこの人生を終わらせることはない。もしも、あなたの人生を空しいままに終わらせるなら、独りぼっちにするようなことがあるならば、私は決して阿弥陀とは名告(なの)らないと誓い、その願い通りに出来上がり、すでに「南無阿弥陀仏」とはたらいてくださっています。

 ところが私たちはそのことを忘れ、いつでも「ほとけさま」ではなく「ほっとけさま」にしているのです。しかし、阿弥陀如来は、決してあきることも、あきらめることもなく、この私のためにはたらいてくださっているのです。

 この阿弥陀さまのはたらきの内にありますから、人としてのご縁の尽きる時、お浄土に生まれ、仏として"誕生"させていただくことができるのです。

 亡き方の人生を通し、私が"いのち"の往()く末を知らせていただいてこそ、本当に「目覚」と言えるのです。

 阿弥陀如来が、「そのまままかせよ、必ず救う」とはたらいてくださっているのが、「南無阿弥陀仏」のお喚び声です。

 この如来さまのはたらきを、私が受け取らせていただき、「有り難うございます。もったいないことでございます」と、お礼のお念仏を相続させていただきたいものです。