諏訪巡拝の2回目は、前回に続いて洩矢神系の神社。洩矢神の御子神もしくは御孫神であり、「狩猟民の神」を祀る千鹿頭神社です。

 

 千鹿頭神社に行かねば…

 と思った理由。

 理由はいくつかあります。

 決定的だったのは

 あの「御頭祭」に鹿を調達した神社 

であったからでした。

 

「御頭祭」といえば、多くの神事を持つ諏訪大社において、最も大掛かり、最も神秘的な神事です。

 そんな神事に関わる洩矢神系の神社。お参りしないわけにはいきません。

 

 

三諸《諏訪巡拝の旅》

 諏訪では、土着洩矢民族と侵入した出雲民族が融合します。重層構造によって成立した「諏訪王国」は、続いて天孫族・ヤマトの侵入を受けます。

 結果、諏訪・出雲・大和の三層構造に加えて精霊=ミシャグジが絡み、複雑怪奇な諏訪信仰が出来上がりました。

 以上を踏まえ、次のような構想で諏訪を巡りました。

 

Ⅰ.諏訪土着の神

 ①洩矢神社(モレヤ神)

 ②千鹿頭神社(チカト神)

 

Ⅱ.出雲族の侵入

 ③上社 本宮

 ④上社 前宮

 ⑤上社の超重要摂社

 ⑥上社の重要摂社と「マキ」

 

Ⅲ.ヤマトの侵入

 ⑦下社 春宮

 ⑧下社 秋宮

 

Ⅳ.精霊ミシャグジ信仰=最も古い

 ⑨御社宮司総社(ミシャグジ総社)

  守矢史料館、「湛の木」

 

 

諏訪大社「上社」摂社

 千鹿頭神社 

(ちかとう・ちかと)

 諏訪は地形の関係上、斜面に建てられている神社が少なくありません。当社も然りです。社殿を斜面に建てるために、盛り土して平坦な土地を造成。そして、盛り土は石垣で固められます。よって、諏訪の神社は、石垣パターンがとても多かったのです。

◇鎮座地:長野県諏訪市豊田3903

(旧住所:有賀村諏訪明神御神領地内)

◇最寄駅:中央本線 上諏訪駅~5km

◇バス便:石舟渡前バス停~850m

 →市営 スワンバス内回り

◇御祭神:千鹿頭神(ちかとう)

 または、内縣神(うちあがた)

◇御朱印:不明

 

 諏訪湖近くの赤石社を出発して600m。当社は湖の西側に連なる丘陵地帯に鎮座します。

 

◆諏訪湖

 石舟渡バス停から湖畔まで50mほど。諏訪湖の東岸と西岸は山々が迫ります。

 

◆雪山を遠望

 千鹿頭神社へと上っている途中、見晴らしの良い地点がありました。

 

神域には右手から入ります。斜面を右に眺めつつ、神社正面に回ります。

 

【社頭】

 

 鳥居の右脇、草花に埋もれていて見過ごすところでした。

 無人社と知っていたので手水が心配でしたが、ひと安心。

 水盤の隣には、水神が祀られていました。

 社や祠の背後に大木。そして御柱。これは、諏訪に頻出する祭祀方法です。

 

 緑地の緩斜面が境内となっています。大鳥居から拝殿へと続く部分の緑が広く刈り取られていて、細かい石が撒かれていました。

 

 松本城的な渋い黒色に塗られた拝殿。

 香取神宮的に光らせないのが諏訪的。

 ちなみに、香取大神を祀る神社は、諏訪に無いらしいです。古事記「国譲り」神話の影響?でも、鹿島大神は下社で祀られています。下社は、やはりヤマトなんですね。

御祭神

 千鹿頭神

 諏訪の民間伝承(諏訪信仰)において、洩矢神の御子神、孫神、あるいはその異名。

 名前は鹿狩りをした時に1,000頭の鹿を捕獲したことに由来すると言われている。

byウイキより抜粋

 

 建御名方神に敗れた洩矢神一族。千鹿頭神はじめ多くの部族が東国や蝦夷地に逃れました。その一方、諏訪に残った一族は建御名方神(=出雲の稲作民)と融合しつつ、狩猟民の心を保ち続けました。by『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会 編~p.29

 

◆洩矢氏系譜

 図は、洩矢神社にて拝受した資料の一部。←『神長守矢氏系譜』からの転用だと思われます。

 洩矢神の3代目に千鹿頭神の名が見えます。そして、洩矢神の系譜は、血族的に見て千鹿頭神で断絶しているのが分かります。

 断絶以降は、4代目から建御名方神の系譜につながっています。建御名方神との融合は祭政だけでなく、系図的にも行われていたことが見て取れます。

 

◆諏訪を出た千鹿頭神

 一方、諏訪を離れた洩矢族はどうなったのでしょう。

 諏訪湖を出発して、八ヶ岳→榛名山→赤城山→男体山→八溝山と山岳づたいに移動した痕跡が残っています。県名では、長野→群馬→栃木→埼玉→茨城(北部)→福島へと移動します。by『諏訪信仰の発生と展開』古部族研究会 編~p.344

 

 ミシャグジ信仰の研究者=今井野菊氏によれば、東国における分布と神社名は千鹿頭のほかに、千賀多、千方、千勝、近津、血方、智方など多数の表記があるようです。読みは「ちかた」「ちかつ」「ちかと(う)」などが見られます。千葉(下総)や茨城南部に無いのは、山が少ないこと&香取や鹿島の存在が影響したのかも。

 

◆神額

 当社の旧住所は、有賀村「諏訪明神御神領地」です。諏訪神社には、南宮大明神との別称がありました。

 よって、当社は《諏訪湖の浜にある南宮》という意味で、この神額を掲げたのでしょうか。もはや、生き残るための「屈服の証」が必要な時代はとうに過ぎています。諏訪明神の摂社としての自負心から掲げたのでしょう。

 

『神奈備にようこそ!」という古代や神社についてのブログを眺めていたら、千鹿頭神についての良質な文章を見つけました。

『谷川健一著作集Ⅰ』「不死と再生の象徴(蛇)」

「千鹿頭神社を丹念に調べた今井野菊氏によると、千鹿頭が訛って都々古別(つつこわけ)となっている神社がかなり混じっており、その祭神はアジスキタカヒコネとなっている場合が少なくない。アジスキタカヒコネは蛇体の神であり、「ツツ」という言葉は、古語で蛇を意味する。」

のだそうです。

 「千鹿頭神は東国に数多き近戸神の一種の宛字で、遠戸神と対立する門神すなはち境の神であると思ってゐる。」柳田国男

 

◆本殿屋根に神紋

 根が4本、すなわち上社の神紋「諏訪梶」です。

 洩矢神系譜の千鹿頭神を祀る当社ですが、洩矢が建御名方神の傘下に入らざるをえなかった哀しい歴史が浮かびます。

 さらに、平入り側の屋根に亀甲柄の紋も見えました。亀甲紋は出雲系なので、ここでも建御名方神へのリスペクトが見えてきます。

 

◆一之御柱

 

 

【境内社】

 境内社は4社ありました。その鎮座位置は、明らかに計算されていました。

 拝殿・本殿の四隅を守護するかのように、あるいは第1~第4の御柱のように、そんな位置関係に鎮座していました。

◆向かって右 ≒「一之御柱」

 祭神不明の社

 

◆向かって左 ≒「二之御柱」

御社宮司社

御祭神:ミシャグジ神

 

 祠の中は、男根を想起させる形状の茶色い石棒が祀られていました。

 

◆左奥 ≒「三之御柱」

 

◆右奥 ≒「四之御柱」

 

 

 

 

◆神楽殿でしょうか?

 拝殿より低い斜面に、拝殿と正対して建てられていました。

 

 

【参考】御頭祭

 諏訪大社 上社「御頭祭」では、前宮の「十間廊」に75個に及ぶ鹿の頭がまな板に乗せて並べられました。

 繰り返しますが、当社はこの祭のために鹿を調達していた神社です。こうした上社への「協力」は、建御名方神との融合の証or恭順の証だったのかもしれません。

※現在は、剥製を使うなど、形を変えて続けられています。

※剥製は『神長官守矢史料館』にて撮影

 

◎神道的でないこと

 血が滴る鹿の頭を神に捧げる…。

 これは、血を穢れとする神道ではありえないことです。

 だからと言って

  御頭祭=縄文的

 狩猟的=縄文的

 とする図式が成立するのかというと難しいところがあります。

 外見が非神道的であり、狩猟神的であっても、イコール「縄文的」と考えることには問題があります。

 結論を書けば

御頭祭は

縄文的ではありません。

これについては、日をあらためて記述する予定です。

 

 

◆緑の丘に舞い降りて

 斜面を渡る風が頬に心地良く、緑あふれる神域でした。

 

 

【御朱印】

 不明

 

【参拝ルート】

2024年 5月 9日

START新宿駅8:00→特急あずさ→10:12上諏訪駅10:19→各駅停車→10:26下諏訪駅~600m~下社春宮一之鳥居~600m~下馬橋~120m~二之鳥居~170m~①浮島社(祓所大神)~②諏訪大社 下社春宮~240m~③弥栄富神社&矢除け石(=磐座)~350m~④御作田社~600m~⑤千尋社&千尋池~30m~⑥諏訪大社 下社秋宮~800m~下諏訪駅12:22→中央本線→12:26岡谷駅→1.1km(TAXI)→⑦洩矢神社~900m~⑧藤島神社~1.1km~岡谷駅北口(昼食)~同駅南口バス停14:27→市営スワンバス内回り→14:22石舟渡前バス停~260m~⑨赤石社~600m~ ⑩千鹿頭神社~850m~石舟渡前バス停 16:29→スワンバス内回り→16:47老人福祉センター入口~30m~ホテル・ルートイン上諏訪GOAL

 

【編集後記】

◆次回は諏訪大社 上社

 2回の記事で、諏訪に土着していた半狩猟&半原始農耕の洩矢族に関わりある神社をご紹介しました。次回は、諏訪大社上社。祭神は出雲系稲作民と共に諏訪に侵入した建御名方神です。(了)