諏訪がずっと気になっていました。
2024年5月、機会がようやく到来。
風薫るこの季節、勇躍、諏訪へ行ってきました。
◆諏訪盆地と諏訪湖
地図を見ると、諏訪が侵入しにくい地域であることがよく分かります。
かつて、この地には、洩矢一族が住んでいました。畿内から遠く、しかも山岳地。彼らは狩猟と原始農耕でノンビリ&自由に生活していたはずです。
諏訪巡拝1日目は、諏訪湖をほぼ1周しました。
●下諏訪=諏訪大社 下社(春・秋)
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●岡谷=洩矢神社&藤島神社
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●有賀・豊田=赤石社&千鹿頭神社
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●上諏訪=宿泊
諏訪と言えば、諏訪大社。諏訪大社と言えば、建御名方神。
この神が諏訪に入る際「無血入城」というわけにはいきませんでした。
《諏訪版「国譲り」》
建御名方神は、出雲の地で鹿島神と戦って敗れ、諏訪へ逃げた…。
これは、古事記「国譲り神話」の1コマで、広く知られた話です。
同様にして、諏訪にも「国譲り神話」があります。
出雲系稲作民を率いた建御名方神が、突如、諏訪盆地にやって来ました。
天津神に敗れて逃げてきたのか、開拓のための入植か…。
どちらにせよ 諏訪の民にとって、建御名方神は侵入者でしかありません。
当たり前に、先住民と争いが起きます。
迎え撃ったのは、洩矢神を長とする一族でした。
(つづきは後述)
①洩矢神社
当社は、「守矢家の氏神の祠ということになっています。」(78代目当主)
by『神長官守矢資料館のしおり』
守矢家とは洩矢神の子孫であり、諏訪大社の神長官を務め続けた家系です。
◇鎮座地:長野県岡谷市川岸東1-12-20
◇最寄駅:JR中央本線 岡谷駅~1.1km
◇バス便:洩矢社前バス停~50m
◇御祭神:洩矢神orモレヤ神
◇御朱印:あり
「洩矢神社協力会」H氏との約束時刻が迫っており、岡谷駅からTAXIを使いました。
【社頭】
◆大鳥居
当社は、鎮守の森に包まれた美しい神社です。
◆水盤には神紋
神紋は「丸に一つ柏」、守屋山に鎮座する守屋神社の神紋は「丸に三つ柏」。
洩矢と守屋は、同一神説と別神説があることを筆者は予習していました。
この件をH氏にお聞きしたところ「守屋は別の神」とのことでした。その根拠に踏み込むと時間を食ってしまうので、さらなる問いかけは控えました。
◆御柱
この地域では、諏訪大社以外の神社でも御柱が建てられます。御柱は、この先いたる所で何度も目にすることになるのでした。
御祭神
洩矢神
もれやのかみ・もれやしん
長野県諏訪地方で祀られ、地元の神話に登場する神です。
《諏訪版「国譲り」続 》
洩矢神は天竜川のほとりで鉄輪をもって建御名方命を迎え撃ちました。建御名方命は角髪(みずら)*に結わえていた藤つるをほどくと、洩矢神の鉄輪に向かって投げつけました。藤つるは鉄輪にスルスルと絡みつき、鉄輪は錆びてしまいました。驚いた洩矢神は降参しました。by「諏訪読本-PDF版」諏訪湖クラブ
*角髪…髪全体を中央で二つに分け、耳の横でそれぞれ括って垂らす髪型。
→藤と鉄を武器とした戦いは、物理的なそれでなく呪術的なものだったのですね。敗れた洩矢神は、死刑や追放などの処分でなく、部下となった。という伝承でした。
当社は、相殿神として藤島明神を祀る、とする説もあるようです。
藤島明神とは、諏訪明神すなわち建御名方神です。
しかし、筆者がH氏から頂いた資料に、そうした記述はありませんでした。
建御名方神合祀の有無!? そんなことより、先住民の子孫として「侵略者」の合祀など認めたくない、との心情が優先された資料なのかもしれません。
◎「国譲り」伝承の意味
諏訪において、洩矢神から建御名方神へと 祭政権の交代 が起きたことを伝える物語、と理解できます。
大祝&神長官体制の始まり
◎入諏後 1
建御名方神と洩矢神の子孫は
→前者=神氏が大祝(おおほおり)として諏訪に君臨。
→後者=守矢氏が神長官(じんちょうかん)として起用されます。
◎入諏後 2
大祝は「生き神」として《祀られる側》へ と立場を変え、実質的な祭祀権は守矢氏が握ります。
こうして、大祝&神長官による、諏訪独特の祭祀体制は明治まで続くのでした。
by『古諏訪の祭祀と氏族』(古部族研究会)~「神への系譜」を要約
【境内社】
3社鎮座していました。H氏によれば、すべて氏子の祖霊社だそうです。
◆遷座説
当社は、元々花岡村(現・岡谷市湊地区)に鎮座していた。しかし、この村から現在地(橋原)に移住した氏族=花岡氏を伴って遷座された、との言い伝えがあるようです。
この日、筆者を迎えてくれたH氏が正に御末裔。御朱印も花岡様から拝受しました。
◆社叢
中央の白っぽい大樹の主張が強く、神が寄り憑きそうな気配を醸し出していました。
諏訪式思考に沿えば「湛(たたえ)の木」にあたるのかもしれません。
当社は、神話的な面白さもさることながら、境内環境も良い雰囲気が漂っていて、素晴らしい神社でした。
諏訪大社を訪れる際には、立ち寄りたい神社の1つだと思います。諏訪大社下社のある下諏訪駅から各駅停車で1駅です。駅から1kmは徒歩圏内と言えるでしょう。
さて、次なる目的地は藤島神社。
当社を出発して天竜川を渡ります。
②藤島神社 ふじしま
社号は「入諏神話」に由来するものと思われます。
→建御名方神(諏訪明神)が洩矢神と争った際、明神が藤を武器とした伝承。
【社頭】
社地が狭く、交通量の多い県道沿いに鎮座しています。
◇鎮座地:長野県岡谷市川岸上1-1
◇最寄駅:JR中央本線 岡谷駅~1.1km
◇バス便:中央印刷前バス停~40m
◇御祭神:藤島明神・三宝荒神
◇御朱印:不明
◆古墳
当社は、石室を備えた円墳(荒神塚古墳)の跡に建てられています。
藤島明神とは、諏訪明神であり、建御名方神であります。
藤島神社はもう1社あります。
諏訪大社上社の摂社で、いわゆる「中十三所」の筆頭社。上社本宮から500mほどの場所でしたが、訪ねませんでした。
岡谷に来たのは、「建御名方神の入諏伝承」視点からでした。ほかにも「上社の重要摂社」視点による神社探訪にもチカラを入れたので、茅野・藤島社の確認を怠ったのは不覚でした。
諏訪明神と洩矢神が争った場所については、守屋山の麓(上社本宮周辺)とする中世の文献もあるようです。
◆天竜川
「入諏神話」にあるように、この川を挟んでモレヤとタケミナカタが対峙しました。
そして今、洩矢神社と藤島神社は川を挟み向かい合って鎮座しています。両社は2柱の神の陣地跡と認知されています。
岡谷市から諏訪市へ
冒頭の地図から見て取れるように、岡谷から南下する諏訪湖西岸ルートは山と湖に挟まれた隘路です。
③赤石社
石舟渡バス停から南に260m、住宅と住宅に挟まれた細道を入った先は、家庭菜園的な場所に鎮座しています。
小さな社といえども、注連縄や神垂は新しく、御柱も含め丁重に祀られているさまが伝わります。
諏訪が信心深い地域であること、こうした小社からも垣間見ることができます。
◇鎮座地:長野県諏訪市豊田3061
◇最寄駅1:JR中央本線 岡谷駅~5km
◇最寄駅2:同線 上諏訪駅~5km
◇バス便:石舟渡前バス停~260m
シルキーバス(岡谷駅←→上諏訪駅)
◇御祭神:赤石明神(=磐座)
◇御朱印:不明
◆磐座
当社は昔から祠がなく、ご神体である岩を祀ってきました。また、「有賀の七御社宮司社(ミシャグジ社)」の1社です。
ミシャグジ神とは、木や石や笹や大祝(=生き神)に降りてくる精霊です。
◆由緒板
「諏方明神である建御名方神が諏訪国へお入りなさる時、湖水を渡りこの地に上がり、石の上で垢を落とし身を清めて小敷原に向かった。」
※小敷原とは神社で「有賀の七御社宮司社」の1つ。
「天竜川決戦」で洩矢神に勝利した建御名方神。川を渡り、岡谷を経て諏訪湖を南下。当地に上陸した。ってことですね。
とまあ、後世にいろいろと創作・潤色されてきたのでしょう。しかし、そういうことはさておき、この岩石は昔から当地域で崇められてきた磐座なんだろうと思います。
【参考文献】
『古諏訪の祭祀と民族』古部族研究会 編
『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会 編
『精霊の王』中沢新一
『アース・ダイバー 神社編』中沢新一
『信濃が語る古代氏族と天皇』関裕二
『神長官守矢史料館のしおり』長野県茅野市
『洩矢神社』洩矢神社社務所(A4 1枚)
【御朱印】
初穂料:300円
今回は、書置きによる拝受でした。
【参拝ルート】
2024年 5月9日
START=新宿駅8:00→特急あずさ→10:12上諏訪駅10:19→各駅停車→10:26下諏訪駅~600m~下社春宮一之鳥居~600m~下馬橋~120m~二之鳥居~170m~①浮島社(祓所大神)~②諏訪大社 下社春宮~240m~③弥栄富神社&矢除け石(=磐座)~350m~④御作田社~600m~⑤千尋社&千尋池~30m~⑥諏訪大社 下社秋宮~800m~下諏訪駅12:22→中央本線→12:26 岡谷駅→1.1km(TAXI)→⑦洩矢神社~900m~⑧藤島神社~1.1km~岡谷駅北口(昼食)~同 南口バス停14:27→市営スワンバス内回り→14:42石舟渡前バス停~260m~⑨赤石社 ~600m~⑩千鹿頭神社~850m~石舟渡前16:29→スワンバス内回り→16:47老人福祉センター入口~30m~ホテル・ルートイン上諏訪=GOAL
【編集後記】
◆洩矢神と建御名方神の入諏ルート
◇洩矢族≒縄文人
武蔵方面から多摩川や相模川を遡り、多摩丘陵・甲府盆地経由で諏訪に入ったものと思われます。
by『アースダイバー 神社編』中沢新一
◇出雲族≒弥生人
①日本海ルート
→出雲から海岸沿いを北上し糸魚川河口に上陸。川沿いに内陸を進み、松本から南下。岡谷に出る。
by『信濃が語る古代氏族と天皇』関裕二
②伊那ルート
→出雲から畿内を経て、岐阜から伊那へと入り、北上。岡谷に出る。
by筆者の想像
◎出雲族の諏訪入りは、どちらのルートであっても、いったん岡谷に入ることになります。よって、岡谷で諏訪の先住民とぶつかるのは避けられなかったでしょう。(了)