2024年 3月 3日、市原市を訪ね神社巡りしました。今回は、旧上総国「国史見在社」のひとつである標記神社のご紹介です。

 

国史見在社

 前廣神社 

(さきひろ)

 当社は、奈良時代において、上総国の中心地だった地域に鎮座しています。近隣には国分寺や国分尼寺の跡、あるいは上総国の式内社を合祀した神社(=総社)があります。

 また、付近一帯には無数の古墳群、あるいは貝塚などもあり、かなり昔から人々が生活していた地であることが窺い知れます。

◇鎮座地:千葉県市原市西広6-4-13

◇最寄駅:小湊鐡道 海士有木駅~1km

◇バス便:山倉バス停~210m

 →五井駅東口<小湊バス 国分寺台行>

◇御祭神:大山祇命

◇御朱印:不明

 

 

 当社は、上総国に6社ある《国史見在社》のひとつです。

国史見在社

 (けんざいorげんざい)

 六国史に記載のある神社のこと。

◇六国史とは

 ①日本書紀(720年)

 ②続日本紀(797年)

 ③日本後記(840年)

 ④続日本後記(869年)

 ⑤日本文徳天皇実録(879年)

 ⑥日本三代実録(901年)

以上6つの史書を指します。

 これらは、720年~901年に成立した史書です。

『延喜式』の成立が927年ですから

 国史見在社は式内社に劣らない古社

ということができます。

 

【当社への道中】

 先に訪れた、諏訪神社から徒歩で当社に向かいました。1.7kmほどの道のりは春の訪れを感じつつの田舎歩きでした。

 写真は小湊鉄道沿いの道で撮影。

 小湊鉄道は、非電化の単線。五井駅と上総中野駅を結ぶ、39kmの路線です。

 

 

【社頭】

 現在の住所・西広(さいひろ)は、当社の社名「サキヒロ」がいつしか「サイヒロ」と読まれるようになり、その音に西広の文字が当てられるようになったそうです。

 この地は、古代において丘陵が海の間近まで迫っていたようです。その岬の幅が広かったことから崎広の地名が生じ→前広となったのではないだろうか、と『房総の古社』は推測していました。

 

 

 

 

 

 

手水舎はなく、古い水盤のみが古樹の根元で寂しげにしていました。

 

 由緒

 ◇伝承

 弘仁年間(810年~823年)、この地に勧請されたと伝えられます。

 

◇公式記録

 清和天皇の御代、貞観十年(868年)に神階=従五位下を授けられた事が「三代実録」や「類聚国史」に記載されている。

by境内の由緒石碑

 

要するに、1000年以上昔から既に存在していた、との記録が残る古社です。

今は無人社となっていますが、荒廃してないのが救いです。

 

御祭神

大山祇命

 伊耶那岐・伊耶那美による神生みによって、風の神・木の神・野の神と共に生まれた山の神。

 山の神といっても、神格は山に住まう精霊のたぐいではなく、山を掌る支配者のような性格と考えられている。ヤマツミの「ミ」は、神名や古代の人名に見られる称で、カミという称よりも古い概念と考えられるが、その意味については、神秘な力を持った存在のこととする説などがある。

by「神名データベース」國學院大學

◇神名分析

 →「大」は美称、「山津見」=山つ霊(み)。すなわち、《山の神霊》の意。

 

◇登場箇所

 →八俣の大蛇退治の段:櫛名田比売の父の足名椎が、大山津見神の子を名乗る。

 →邇々芸命の結婚の段:石長比売・木花之佐久夜毘売の姉妹の父として登場。邇々芸命の求婚に応じて姉妹を送った。

by「神名データベース」國學院大學

 

◆拝殿と本殿

ともに質素な美しさが漂います。

 

 

◆本殿

 隙間がまったくない覆い屋です。

 

 

 

◆富士塚、いや古墳?

 拝殿・本殿の右サイドに小さな丘と鳥居があります。フツーに富士塚のようです。しかし、『房総の古社』の菱沼氏は古墳ではなかろうか、と推察していました。

丘の麓には鳥居

中腹と頂上に石碑

 

◆中腹に小御嶽神社

祭神:磐長姫命

 

◆頂上に富士浅間大神

 

山頂から社殿を眺める

 

祭神と古墳

 当社の祭神は大山祇命です。しかし、『房総の古社』によれば、「初めて、ここに祭られた頃からの祭神とは考えられない。」としています。

 では、本来の御祭神とは・・・

 現在、浅間大神が祀られる上記古墳の被葬者ではないか、と推測していました。被葬者の子孫たちによって、古墳の祖霊祭祀が続けられた。のちに、社殿が建てられ、いつしか大山祇を祭祀するようになった。と。

 そして、古墳の被葬者とは、末期のころの菊麻国造ではないか、と。

 

※菊麻国造

『先代旧事本紀』「国造本紀」では、成務天皇の時代、无邪志国造の祖=兄多毛比命の子の大鹿国直を国造に定めたことに始まるとされる。

 国造の本拠は市原郡菊麻郷(現市原市菊間)にあったとされる。市原郡には、後に上総国の国府が置かれた。byウイキ

 

 

【境内社】

◆石祠エリア

入口に鳥居。柵(=荒垣?)の中にいくつもの石祠が祀られています。

◇判読できた石祠

→○○大権現が2つ、白幡神社、子安神社、疱瘡神、湯殿神社、大宮大権現、香取神社、日宮神社、天神社、など。

 

※白幡神社は、「源氏の白旗」由来でしょうか。伊豆の石橋山で平家の部下に敗れ、海を渡って房総まで逃走した頼朝。この上総国で上総介広常を味方につけました。『鎌倉殿の十三人』佐藤浩市の顔が浮かびます。

 

◆出羽三山

 参拝記念碑がいくつも並んでいました。中には、比較的新しいものも複数あり、こうした講中が近年まで存続していた(存続中?)ことに感慨を覚えました。

 

奇木の根元に捻じ込まれた石祠

 

 

 当社は、一定の整備や清掃が保持されているため、無人社であるにもかかわらず、境内の雰囲気は上々でした。遷座とか移転などがなされた記録がないということは、境内は1000年前の地面のまま。と、そんな感慨に浸りつつ、ひとときを過ごしました。

 

 

【最寄り駅】

◆海士有木駅

 この木造駅舎は「登録有形文化財」です。小湊鉄道は、非電化の単線。これだけでワクワクします。

 

◆出札口と改札口

 レトロ感が満載な駅構内。今は無人駅のため、乗車券は券売機で購入です。

 

◆「あまありき」語源

 海士(あま)=漁民のこと

 有木(ありき)=北条氏の武将・二階堂氏が当地の蟻木(ありき)城で討ち死。

 この2つを合成してできた名称です。

 

 

【御朱印】

不明

 

 

【参拝ルート】

2024年 3月 3日

START9:41 JR内房線五井駅東口~20m~4番バスのりば 9:47小湊鉄道バス<国分寺台行き>→9:57国分寺台南郵便局~400m~①上下諏訪神社~1.7km~②前広神社~1.0km~海士有木駅→小湊鉄道→五井駅~(のりかえ)~JR五井駅GOAL

※③として、建市神社(国史見在社)も予定していました。海士有木駅から1駅下った上総三又駅から徒歩です。しかし、上り電車が先に来たので、つい、乗ってしまいました。

 

 

【編集後記】

◆小湊鉄道

 小湊鉄道には、電柱や電線がないので、見晴らしが良いのです。筆者は”乗り鉄”でもなければ、”撮り鉄”でもありません。ただ、この鉄道に乗って、神社巡りするのが大好きなのです。

第四養老川橋梁を進むトロッコ列車。この1枚は千葉市観光協会から拝借。 (了)