2023年5月10日&11日、館山市と南房総市の古社に行ってきました。このときの模様を《安房国 式内社&忌部の神々を巡る旅》と題してご紹介しております。
式内社(論社)
莫越山神社
なこしやま
延喜式に記載された社号
莫越山神社
ナコシヤマノカミノヤシロ
当社は式内社の論社で、忌部氏の子孫が祖神を祀った神社です。
◇鎮座地:千葉県南房総市宮下27
◇最寄駅:JR内房線 南三原駅~6.3km
◇バス便:川谷バス停~380m
→館山駅前から日東交通丸線で60分
(7:00~17:00の10時間で6本のみ)
◇御祭神:手置帆負命・彦狭知命
◇御朱印:不明
沓見の莫越山神社を参拝し、次の目的地は宮下の莫越山神社です。両社間の距離は約5km。徒歩では厳しい距離なので、タクシーを使いました。
【社頭】
莫越山神社は、式内社・安房国6座のうち、小社4座の1つ。南房総市宮下の石神畑地区に鎮座します。
社殿は、渡渡山(=莫越山)を背にして建てられています。
◆社号標
中央に「莫越山神社」、右上に「勅願所 延喜式内」
由緒①
莫越の山に祖神を祀る
天富命が阿波忌部氏の一部を率いて東方に向かい、今の房総半島に上陸。この地を開拓し、故国の地名=阿波にちなんで安房(あわ)と称し定住。
土着民が祀っていた神体山の渡度山(莫越の山)に忌部の祖神を祀る。
~境内の案内板から抜粋要約
由緒②
小民命と御道命
開拓を始めた時、天冨命の部下である工人の小民命(こたみのみこと)と御道命(おみちのみこと)の願いにより、その祖神を祀ったのが始まり。とする社伝があります。
①・②から
讃岐忌部と紀伊忌部の子孫が当地に来着。それまで付近の農民たちが祀っていた莫越山に忌部の祖神を祀った。
そののち、山麓に遥拝所が建てられ、里宮として発展した。
といったところでしょうか。
◆道標
石柱の左上に見えるのが莫越山。
◆一之鳥居
注連縄の下に莫越山を遠望。この山、今は「渡渡山」と呼ばれています。
御祭神
沓見地区の同名神社と同じです。
手置帆負命たおきほおい
讃岐忌部の祖神
日本書紀において、作笠者(かさぬい)と紹介されています。
古代の建築技術者であり、笠と矛の制作者。
「手置」とは、手を押し開くの意。
「帆」は尋の切音。尋は長さの単位。一尋=六尺(約1.8m)
→手を置いて、長さを測る。
彦狭知命ひこさしり
紀伊忌部の祖神
日本書紀において、作盾者(たてぬい)と紹介されています。
古代の建築技術者であり、盾の制作者。
「狭知」とは、度量知(おししる)。
→物を測り知る。
古語拾遺では、手置帆負命と彦狭知命が天御量*を作り、材木を切って瑞殿を造営、と。よって、木工の祖神とされています。
*天御量(あまつみはかり)
→天上界で定めた物差し。
by『日本国語大辞典』
◆手水舎
水はなく、供給もされておりません。
相殿神
鎌倉時代の初期頃、相殿神を祀るようになりました。
→小民(おたみ)命・御道(おみち)命
この2柱は、当社の創始者です。
祭神が工匠の守護神とされることから建築職人からの信仰があります。江戸時代末期、江戸を中心に大工・左官などが組織する講(=祖神講)が相次いで結成されるようになりました。
伝承によれば、往古境内は広大、神殿は壮麗だったそうです。しかし、中世の頃に激しい変遷を経て荒廃したそうです。
当社周辺には現在も神社や忌部氏に関係する名称や地名が残っています。
→禰宜沢、幣造谷、忌部屋敷、忌部井戸、などなど。
◆左から拝殿・幣殿・本殿
『房総の古社』菱沼氏によれば、覆い殿に安置される本殿は、神明造。とのこと。
覆い殿といえども、そこそこ立派です。
社殿の背後に回って、本殿(覆い殿)の左サイドから振り返ると・・・、
真正面に美しい莫越山が見えます。
【神体山】
◆渡渡山(とどやま)
当社の北西に神奈備型(=円錐形)の美しい山容。高さは海抜150mほどで、山頂に当社の奥宮が鎮座します。
山頂に奥宮が建てられたのは、後世のことです。当初は、周辺に住む人々が山そのものを「ご神体」として奉斎していたと考えられています。
莫越の山とは
越してはならない山。立ち入ってはならない山。と、解釈するのが一般的です。
山そのものを神とする
大和国 大神神社の三輪山が有名ですが、関東圏を見てみます。
上野国 赤城神社の赤城山
下野国 二荒山神社の二荒山
武蔵国 金佐奈神社の三室山
安房国 安房神社の吾谷山
など。
神体山を拝する神社は、のちに本殿を造る社が続出しました。当社もその1つです。
今でも神体山を拝祀し、本殿を建てない神社は2社のみ。大神神社と金佐奈神社だけ(by『房総の古社』菱沼勇)とのことです。
◇追記◇
諏訪大社の上社本宮・下社春宮・下社秋宮も本殿がありません。
うち、春宮と秋宮のご神体は山でなく樹木。春=イチイ、秋=スギです。上社本宮については本ブログの後半で記述します。
莫越山の
南麓に広がる「古代」
【祭祀遺跡と古墳】
◆古代祭祀遺跡
千葉大学の教授らによって、昭和43年と45年に発掘調査が行われました。
当社周辺(=東畑・六角堂・石神畑)で、7世紀頃のものと見られる古代祭祀遺跡が確認され、「莫越山神社遺跡」と名付けられました。
祭祀に使われたとみられる土製の勾玉・丸玉・釧(くしろ)・木葉文(このはもん)底土器などの土製模造品と手捏(てづくね)土器が出土しています。
この遺跡は、神奈備型の山を神体とした「神まつり」の典型例といえます。
※写真は、出土した勾玉と丸玉
◆永野台古墳
当社の南1kmの場所に永野台古墳があります。
古墳は2基。5世紀後半のものとされ、うち1基は全長25mほどの前方後円墳です。
大正12年に「鎌を持つ農夫」を象った埴輪が出土。昭和54年の調査では、人物埴輪や円筒埴輪が出土しました。
埴輪は、日本全国に分布します。なかでも、関東地方や近畿地方に濃密分布します。千葉県では、とくに下総において形象埴輪の出土が顕著です。ところが、安房は例外的。埴輪が出土した古墳は、当地の他に1か所だけです。
※2枚の写真と文は館山市立博物館より
◆御神木
◆境内社
八幡宮です。中世、この地を支配した丸氏の居城を守る(=鬼門除け)ために建立された、との伝承があります。
◆御神庫
画面左の小さいほうです。外壁に「昭和十三年 十月吉日・奉納 神火岩波やす」の文字。
「神火(じんが)」とは、岩波家の屋号。代々、莫越山神社の祭祀を司った家系で、忌部氏の末裔です。
◆石宮
右=熊野社、左=石神(いしがみ)社
集落内にあった小社をこちらに移しました。
by館山市立博物館
※八雲神社と山神社、とする説もあります。
by平成祭データ(神社庁)
◆忠魂碑
式内社はどちら
前回と今回で、2つの莫越山神社をご紹介しました。
沓見(前回)と宮下(今回)のどちらが本来の式内社であるかという問題は、おのずから答えが出たかと思います。
◇宮下莫越山神社
社殿裏に渡渡山という神奈備形の山が存在します。また、付近には古代祭祀遺跡や古墳が点在します。
◇沓見莫越山神社
社殿や境内の規模あるいは管理状況などにおいて、明らかに宮下に勝っていました。しかし、核心である「神体山=莫越山」がありませんでした。
神体山との位置関係
沓見については、なるほど一之鳥居から莫越山を遠望でき、遥拝可能です。しかし、背後にありません。つまり、神体山が見えるか否かなど、重要ではないのです。
核心は《神体山との位置関係》です。拝殿にて拝礼したとき、神体山がその背後にあるか否かです。例えば、宗像大社。辺津宮から沖ノ島は見えません。しかし、距離は離れていても位置関係は「背後」です。
この話になれば、諏訪大社に触れないわけにはいかないでしょう。
守屋山は、上社本宮から見えませんし、背後でもありません。守屋山は神体山ではないのでしょうか。否です。元宮とも言える境内の「硯石」に着目です。この磐座を拝礼する人は背後の守屋山を神体山と理解しています。
◎沓見は宮下の分社 説
沓見について、『房総の古社』菱沼勇氏は次のように語ります。
→宮下地区で稲作をしていた人びとの一部が南下。沓見に移り住んで耕作を始めた。彼らは、一族の氏神であった莫越山神社を沓見の地に分祀したのだと思われる、と。
沓見が宮下の分社だとした場合、社殿の向きに三諸は納得できません。なぜ、莫越山が背後になるよう南向き社殿にしなかったのでしょう。現社殿は、東向きです。
この事実は、莫越山を神体山として信仰していないため、と解釈できます。だとすれば、沓見は、忌部の末裔が祖神を祀るために建てた古社であるけれど、神体山を擁する「式内社=莫越山神社」ではない。という理解になります。
【御朱印】
不明です。
もしかしたら、当社の本務社にあるかもしれません。
本務社は、当社近くの諏訪神社(代表:諏訪氏)です。
こちらの諏訪神社、興味深いことに、建御名方神&八坂刀売神の相殿神として、手置帆負命・彦狭知命を祀っています。
【参拝ルート】
2023年 5月11日
《安房国の式内社
&忌部の神々を巡る》
START=館山駅前バス停8:20→日東交通[館山千倉白浜線]→8:42牧田郵便局バス停~30m~①牧田 下立松原神社~1.8km~②高家神社→7.7km(TAXI)→③沓見 莫越山神社→4.9km(TAXI)→ ④宮下 莫越山神社 ~380m~川谷バス停14:00→日東交通[丸線]→14:40館山駅前バス停~館山駅15:37→JR内房線・木更津行→(君津駅乗り換え)→JR総武線快速・逗子行→17:33津田沼駅=GOAL
※前日(5月10日)の神社巡り
①船越鉈切神社、②海南刀切神社、③洲崎神社、④下立松原神社(滝口)、⑤天神社(=④の境内社)、⑥布良崎神社、⑦安房神社 以上
【編集後記】
◆万葉集の歌
毎年節分の夜、当社境内では竹を使って神火を焚き、社家では戸や障子をすべて開放して、万葉集(巻十)にある以下の歌を唱えたそうです。(→戦後、中断しています)
わがせこを 莫越の山のよぶ千鳥
君よびかへせ 夜のふけぬとに
・安房国に来た都の誰か、例えば国司などが莫越山神社に奉幣し詠んだもの。
・莫越山の近くに住む男が防人に撰ばれて出立。のちに妻が夫を慕って詠んだもの。
などの解釈があります。
by『房総の古社』
◆ありがとうございました
《安房国の式内社&忌部の神々を巡る》は、今回が最終回。館山市と南房総市にまたがる地域の古社=11社の踏査を2か月かけてご紹介してまいりました。
ご覧いただいた皆さま方には、感謝です。ありがとうございました。 (了)