《安房国 式内社&忌部の神々を巡る旅》の7回目は、神明造+茅葺屋根の神社です。
式内社
高家神社 たかべ
延喜式に記された社号
高家神社=タカイエノ カミノヤシロ
頂いたパンフレットを読むと
①当社は江戸時代から奉斎が始まった
②社号の読みが延喜式のそれと異なる
と、この2点が読み取れます。
となると、①②から
当社は、式内社でないことになります。
当社は、どのような神社なのでしょう。
◇鎮座地:千葉県南房総市千倉町南朝夷164
◇最寄駅:JR内房線・千倉駅~1.8km
◇主祭神:磐鹿六雁命
(いわかむつかり)
→別名:高倍神(たかべのかみ)
◇相殿神:天照大神・稲荷大神
◇御朱印:あり
社号=高家の読み
現在は「たかべ」
『延喜式』は「タカイエ」
photo by国立公文書館
能登国の羽咋郡 高家郷=「たかや」
佐渡国の羽茂郷 高家郷=「たかべ」
などの例から、読み方はどちらも類例があります。
【参道】
◆社頭
社号標は「延喜式内 郷社 高家神社」の文字。
鳥居は神明系です。
始まりは神明社 (由緒1)
元和元年(1620)、現宮司の祖先である高木吉右衛門が当所の桜 三本を他所に移植しようとしたところ、木の下から1体の木造と2面の古鏡が出土。巫女を呼び、占なったところ「われは天照大神なり 良き所に社を建てよ」とのお告げがあり、社を建立。
by当社パンフなど
つまり、天照大神を祀る社=神明社として創建されたということ。
高家神社を名乗る (由緒2)
高木氏は、代々、神明社の神主として天照大神を奉斎しました。しかし、文政二年(1819)から高家神社を名乗り始め、京都 吉田家に認許を求めました。
その根拠は
①社宝
神鏡の鏡面に「御食津神 磐鹿六雁命」と記されていたこと。
②地名
元和元年、当地は「高家峯大宮畑」という地名であったこと。
でした。
果たして、高木氏の主張は認められ
とある神明社は
高家神社となりました。
主祭神=天照大神は相殿神へ。
新たな祭神として、磐鹿六雁命を奉斎しました。
by当社パンフなど
◆参道
参道の両側にツツジのような低木の植栽。玉砂利が敷かれ、丁寧に整備されています。ただ、古木・巨木の類がありません。1970年代は一面の草原だった、と『房総の古社』に記されていました。
玉砂利や石段は新品感、清潔感が溢れます。
◆拝殿
今やほとんど見ることができなくなった、茅葺の屋根です。
主祭神
磐鹿六雁命
→景行天皇が安房に巡幸した際、磐鹿六雁命の海鮮主体の料理に感激。膳大伴部(かしわでのおおともべ)を授けた。この功により、磐鹿六雁命の子孫は膳臣(ぜんのおみ)として、代々、皇室の食事を司るようになります。
千木は外削、鰹木は奇数(=7本)。男神仕様なので、主祭神に整合します。
祭神ついては
有力な異説があります。
現行の祭神=料理の祖神
祭神の異説=忌部の祖神
祭神異説
天道根命(あめのみちね)
『日本地理志料』や『房総游乗』などは、高家神社は高家首(おびと)の祖である天道根命を祀った社であるとしています。
天道根命は
彦狭知命の子
です。
彦狭知命(ひこさしり)は、古代の建築技術者。また、盾を製作する専門技術者で木工の祖神です。日本書紀では作盾者(たてぬい)という美しい呼称で紹介されています。
◆朝夷郡(あさひな)
高家神社が鎮座する朝夷郡には、式内社がもう1社あります。莫越山神社といって、主祭神は彦狭知命&手置帆負命です。
このことから、高家神社において彦狭知の子である天道根が祀られたとしても、なんら違和感がありません。
祭神が天道根命
だとすると
高家神社は
紀伊忌部系の神社
ということになります。
◆本殿
本殿の覆い殿も神明造風です。
以上、当社の祭神について少考し・推測してきました。
繰り返しますが、高家神社の現・祭神は「料理祖神=磐鹿六雁命」です。ただ、この人は安房にとどまらず、景行天皇とともに都に帰っています。そっけないものです。
そもそも、現在の高家神社は、江戸時代にとある神明社が一方的に名乗り始めたことが分かりました。『延喜式』神名帳おいて、朝夷郡に高家神社が記載されている。しかし、その所在は不明。西暦1800年頃、件の神明社・神主がこの事実に気づき、自社に箔をつけるため、式内社を名乗り出た。そんな風に思えます。
延喜式にある安房国の高家神社は、もともと何神を祀っていたのでしょう。
料理の祖神なのでしょうか。私は、祭神異説のほうに親和的です。
地元民が磐鹿六雁命を偲んで奉斎
開拓民が祖国を偲んで祖神を奉斎
このどちらか、ということです。
仮殿もしくは権殿
幣殿の隣に小さなスペースがあります。そこに、小さな社殿があります。
まるで、伊勢神宮の古殿地に立つ小屋のようです。
この社殿は何か?宮司さんに取材しました。
→社殿の改築や修理などの際、神さまを一時的に奉安する社殿。
とのことでした。すなわち、仮殿もしくは権殿ですね。
高倍神
(たかべのかみ)
高家神社のパンフレットに、主祭神=磐鹿六雁命の別名であること。また、高倍神が宮中醤院(ひしおつかさ)にて祀られていること。などが記されています。
調べてみたところ『延喜式』神名帳「宮中」の項にありました。
→大膳職坐三座の中に高倍神社が見えます。そして、高倍神社とは磐鹿六雁の霊を祀っているとされます。
photo by国立公文書館
つまり、
件の神明社は『延喜式』神名帳に核心部を依拠しています。
「安房国」の項から
→《高家神社》の社号を
「宮中」の項から
→《高倍(たかべ)》の読みを
それぞれ借用したのかもしれません。
※あくまでも私見です。
【包丁関連】
◆包丁奉納殿
包丁を祀る。
このような社殿は他に類を見ません。
当社では、春季例祭、秋季例祭(旧神嘗祭)、新穀感謝祭(旧新嘗祭)などで、『包丁式』なる神事を斎行します。
包丁式は、平安時代から宮中行事の1つとして行われてきました。烏帽子、直垂をまとい、包丁とまな板を用いて手を触れることなく、真鯛、真魚鰹(まなかつお)などを調理します。
◆包丁塚
境内には、包丁塚が2基、包丁供養碑が1基あります。
◆御神水
中央の竹筒に蛇口が取り付けられています。
【忌部氏の分布】
房総半島南部における式内社・祭神の鎮座状況を確認します。
南西部(=安房郡)は天日鷲命
南東部(=朝夷郡)は彦狭知命
となります。
南房総の忌部氏は、阿波忌部と紀伊忌部が安房白浜町あたりを境として、定住地を分け合ったような格好です。
阿波忌部氏が黒潮に乗って房総に来着したように、紀伊半島の忌部氏もまた、黒潮に乗って千葉にやって来たのかもしれません。
【御朱印】
初穂料300円
【参拝ルート】
2023年 5月11日
《安房国の式内社
&忌部の神々を巡る》
START=館山駅前バス停8:20→日東交通バス→8:42牧田郵便局バス停~30m~①下立松原神社~1.8km~ ②高家神社 →7.7km(TAXI)→③沓見 莫越山神社→4.9km(TAXI)→④宮下 莫越山神社~380m~川谷バス停14:00→日東交通・丸線→14:40館山駅前バス停~館山駅15:37→JR内房線・木更津行(君津駅で乗り換え)同線・快速逗子行→17:33津田沼駅=GOAL
※前日(5月10日)の神社巡り
①船越鉈切神社、②海南刀切神社、③洲崎神社、④下立松原神社(滝口)、⑤天神社(=④の境内社)、⑥布良崎神社、⑦安房神社 以上
【編集後記】
◆旧跡があるとの説
当社には旧跡が別のところにあって、そこから現在地に遷座したとの説があります。それは、当社北方にある丘陵を越えた向こう側。直線で800mほど離れた場所、「足長の堰」という池の近くの山上にあったという説です。
by『房総の古社』菱沼勇
この件で1つ思い出しました。以前、konohanaさんの御食津(みけつ)関連の文章に「手長」という用語が出てきました。こちらは、足長です。ともに、料理に関連するので単なる偶然とは思えませんでした。(了)