《安房国 式内社&忌部の神々を巡る旅》の6回目は、標記と牧田 下立松原神社、2社の御紹介です。

 

 天神社は、菅原道真公を祀る「てんじん」ではありません。ただ、読み方がハッキリしません。

 「アマツカミノヤシロ(=アメノカミノヤシロ)」なのか「アマノカミノヤシロ」なのか。なんと読むかの問題があります。これについては、本文で考察します。

 

式内社

 天神社 

 延喜式「神名帳」では、安房国・朝夷郡 小社4座のうち、天神社は第1位に記載されています。

 当社は、安房白浜 滝口の下立松原神社の境内社ですが、論社でなく比定社です。

 

 元の社地は滝口字天神免の観音堂あたりとされ、のちに別当寺の紫雲寺裏北西の本郷谷(やつ)に移ったとされています。昭和3年(1928)に現在地に遷宮されました。

by境内石板

◇鎮座地:千葉県南房総市白浜町滝口1728~滝口下立松原神社・境内

◇最寄駅:JR内房線・館山駅~11.2km

◇バス1:白浜中学校前バス停=450m

 →JRバス関東・南房州線 安房白浜行き

◇バス2:長尾橋バス停~600m

 →日東交通・豊房線 安房白浜行き

◇主祭神:高皇産霊命、神皇産霊命

◇御朱印:確認しませんでした。

 

 

◆下立松原神社の境内社

 左手社殿は、滝口下立松原神社で、隣が天神社です。左の拝殿は扉を開けてもらえたので内部を見学できましたが、天神社のほうは、そういう展開になりませんでした。

 社殿の背後に本殿はなく、当社殿が本殿。あるいは、当社殿は拝殿で、中に本殿が安置されているのかもしれません。

 

 

天神社の読み

 延喜式「神名帳」には、カタカナの読みが付されているのですが、当社(印)には、それが付されておりません。

※写真は「国立公文書館・デジタルアーカイブ」~『延喜式』神名帳より

 

 読み方については、『房総の古社』の菱沼勇氏の見解に興味深いものがありました。

 以下に要点を引用します。要約しても、やや長いです。

 

◆アマツカミノヤシロ

 式内社で一般に天神社を称している神社は、付近に地祇や蕃神を祀る神社があって、自社がアマツカミ(天神)を祀ることを誇示、あるいは区別しているように思われる。例えば、武蔵国の穴澤天神社、布多天神社、大麻止乃豆乃天神社などは、付近に帰化人またはその子孫が多く居住した。その地の虎狛神社や、おそらく広瀬神社などは、蕃神を祀った神社と推測される。だから天神を付けて区別する。

 ところが、安房国の天神社の周辺は、いずれもアマツカミ系の神社ばかり。多くの神社に忌部氏が関係している。したがって、朝夷郡の天神社のみがアマツカミ系式内社ではないから、社名において区別もしくは誇示する必要はなかったはず。

 

◆アマノカミノヤシロ

 古代のアマという言葉は、天上あるいは高天原という意味のほかに、海のことや海人のことを言った。古来、漁労を専業とする人々が沿岸に住み着いた。それらアマの集団は、いずれも海神を祀って守護神とした。安房国の海人集団が奉斎した神は、付近の農耕民集団からアマの神と呼ばれ、アマノカミノヤシロと称したものと思われる。

 

 かつて、安房国の国司が当社を官社にしようとして中央に上申した際、アマに天の字を当て、天神社として申請。正式社名として「神名帳」に登録された、と推測する。

 

ちなみに、歴史学界の大御所=上田正昭氏は、「天鳥船」は「海鳥船」であり、「天磐櫲樟船」も「海磐櫲樟船」のことであった、としている、とのこと。

 

 

 以上のように、菱沼氏は アマノカミノヤシロと読むべき とする趣旨の文章を書いていました。

 

 つまり、現在の祭神は後から持ってきたものであって

 

本来は 海神を祀った社 である

 

と、そういう見解でした。

 

 

 

祭神

 いろいろな説が存在します。

館山市立博物館・当社境内の石板

高皇産霊命、神皇産霊命 

 

 他にも、下立松原神社宮司=高山氏は1970年代に「祭神は天御中主命」と語ったようです。

あるいは、『大日本史』では天冨命、『神社〇録』では大己貴命&少彦名命、『神名帳考証』では天押日命など、多士済々です。

 

 天神社の場合、菱沼氏の「初めて奉斎されたときの祭神は、海神であったろう」とする見解を踏まえて、今現在でも、この認識で良いのでは、と思えてしまいます。

 

 

次は、もう1つの下立松原神社です。

こちらは、南房総市千倉町に鎮座します。

 

 

式内社(論社)

 牧田 下立松原神社 

 千倉町には、幅約300m、長さ約6kmにわたり幾段もの海岸段丘が続いています。海抜30m以下の段丘は、縄文期以降に形成されたものと考えられていて、明応7年(1498)、元禄16年(1703)の大地震の際も大きく隆起したことが知られています。

 当社は、海抜約30m付近の段丘にあり、昔は一面の松原であったと言われています。

◇鎮座地:千葉県南房総市千倉町牧田193

◇最寄駅:JR内房線・千倉駅~350m

◇バス便:牧田郵便局バス停~150m

 →日東交通 館山千倉白浜線(館山発)

◇主祭神:天日鷲命(あめのひわし)

◇副祭神:言筺比売命(ことはこひめ)

◇御朱印:不明

 

 

◆社号標

 延喜式内 下立松原神社と彫られています。この石標は、最近のもののようです。

 

◆参道

 当社には鳥居がありません。

 源頼朝は、安房に逃れてきた際、土着の豪族の案内により当社で戦勝祈願したとされています。その折、頼朝は敗戦の身をはばかり、鳥居の脇から入ろうとしたそうです。そうしたところ、氏子達が鳥居を取り除き招き入れたとされ、以来鳥居は作られず、鳥居のない神社となったとのことです。

 

 

 

手水舎はオンボロですが、肝心な水はしっかりと供給されます。

 

 

創建

 天富命(あめのとみのみこと)に従って安房にやってきた阿波忌部一族。その子孫である美努射持命(みぬいもちのみこと)が祖神・天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀ったのが始まりとされます。by館山市立博物館

 

 しかし、美奴射持命が誰なのかは不明で、いちおう、安房忌部の一族と考えられています。洲宮神社『斎部宿祢本系帳』では、天日鷲翔矢命の子の天羽雷雄命の子孫として、似たような名の美努宿祢が出てきますが、別人です。

 

祭神

 主祭神

 天日鷲命

 あめのひわしのみこと

→日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波忌部氏の祖神です。

麻植神(おえのかみ)、忌部神(いんべのかみ)とも呼ばれる。byウイキ

 

 副祭神

 言筺比売命

 ことはこひめのみこと

→館山市立博物館のHPによれば、この女神は天日鷲命の后神とのことでした。ただ、それ以上のことは調べてもでてきませんでした。

 

 

◆鷲

 天日鷲命の神名にある「鷲」は、天岩戸神話によります。

 岩戸の前で神々が踊り始めたとき、この神は弦楽器を奏でました。すると、弦の先に鷲が止まったといいます。神々はそれを吉祥と喜び、演奏する神の名に鷲の字をつけたとされます。

 

 江戸時代、平田篤胤は弦楽器に止まった鷲は、神武天皇がナガスネヒコとの戦において、勝利に貢献した金鵄(きんし)と同一の鳥としています。

by『日本の神社』 大麻比古神社・忌部神社

(デアゴスティーニ)

 

 

 当社に拝殿はなく、覆い殿の中に流造の本殿が安置されています。扉は二間に別々になっており、二柱の祭神を祀っているものと思われます。

 

◆本殿

 主祭神・副祭神のほかに、駒形神社(月夜見命)、浅間神社(木花咲耶姫命)、垂迹神社(本地仏=大日如来)を明治41年(1908)に合祀しています。

photo by館山市立博物館

 

 

 

 

◆御霊白幡大明神

御祭神は二柱

①源頼義(源氏の祖)

②八幡太郎義家

 県道から当社専用の参道が設えられています。

 社伝によると、元暦2年(1185)、頼朝は地元の武将=安西三郎景益に命じて、源頼義と八幡太郎義家父子の霊を祀るために創建し、朝夷郡の総鎮守としたそうです。

 また、頼朝は文治年間(1185~1190)に安西氏を使いとして頼義・義家の木像、薬師如来像、自ら写経したという大般若経600巻を当社に奉納したと伝わります。

 

◆別殿四社

 境内に別殿として祀られている神社です。

①八雲神社(須佐之男命)

②稲荷神社(倉稲霊命)

③天神社(少彦名命)

④子安神社(豊玉姫命)

 

◆十八社宮碑

 境内に祀られている18社全ての社名が記された石碑です。

 下立松原神社のほか、合祀された駒形・浅間・垂迹神社、御霊白幡大明神、境内別殿四社、六所明神、歯神、疱瘡神など。

 このうち、六所明神は朝夷郡の政庁(=郡衙ぐんが)設置にともなって祀られた神社です。疱瘡神は、疱瘡(天然痘)」が古い時代には疫神によるものと信じられたため、この神を祀る風習がありました。

 

◆経塚

 頼朝が奉納したという大般若経の破損がひどくなったため、明和9年(1772)に石函に納めてこの下に埋められました。

 

◆頼朝公 馬洗池跡

 頼朝が当社で戦勝祈願した際、この池で馬を洗ったとの言い伝えがあります。また、例祭で行われていた鏑流馬や競馬の馬もここで洗っていたそうです。

 

 当社(=牧田 下立松原神社)は無人社であり、社名にある松は1本もありません。境内には仏教関連施設もあり、垂迹神社などという、仏教の本地垂迹説を想起させる社もあります。また、付近には当社と関係が深い仏教施設もいくつかあって、忌部の神を祀る式内社というより、地元密着の神仏習合神社という雰囲気でした。

 

 

【御朱印】

不明

 

 

【参拝ルート】

2023年 5月11日

《安房国の式内社

   &忌部の神々を巡る》

START=ホテル・マイグラント~190m~館山駅~館山駅前バス停8:20→日東交通バス→8:42牧田郵便局バス停~30m~①下立松原神社 ~1.8km~②高家神社→7.7km(タクシー)→③沓見 莫越山神社→4.9km(タクシー)→④宮下 莫越山神社~380m~川谷バス停14:00→日東交通・丸線→14:40館山駅前バス停~館山駅15:37→JR内房線・木更津行(君津で乗り換え)同線・快速逗子行→17:33津田沼駅=GOAL

※前日(5月10日)の神社巡り

①船越鉈切神社、②海南刀切神社、③洲崎神社、④下立松原神社(滝口)、 天神社(=④の境内社) 、⑥布良崎神社、⑦安房神社 以上
 

 

【編集後記】

 今回は、1泊2日(5/10~5/11)の旅でした。当地が古代から地震多発地帯であることを何回か記してきました。なんと!2日めの未明に大きな地震に見舞われました。結果、予定していた電車が安全確認のためストップ。バスやタクシーを使う羽目となりました。それでも、ラストの神社を巡り終えた頃には、ダイヤに乱れがあったものの電車は動いてくれたので、帰宅することができました。

 

 今回の旅は、安房国の式内社6座(論社を含め8社)、すべて廻ることができました。中でも、滝口 下立松原神社と沓見 莫越山神社は素晴らしい雰囲気の神社でしたので、いつか再訪するつもりです。(了)