《安房国の式内社&忌部の神々を巡る旅》の5回目は、標記の御紹介です。

 

 安房国一宮・安房神社は、ALL忌部氏の祖神=天太玉命を祀る社でした。

 

 今回の下立松原神社は、阿波国忌部氏の祖神=天日鷲命を祀る社です。

 

 当社は『延喜式』神名帳のみならず、それより100年以上古い書=『古語拾遺』(807)に記される神社で、神武天皇元年の安房開拓に関する忌部氏の伝承が残る古社です。

 

 

 式内社(論社) 

 下立松原神社(滝口) 

(しもたてまつばら) 

 当社は下立松原神社の論社です。論社はもう1社あります。千倉町牧田地区に鎮座する同名神社です。今のところ、どちらが本来の式内社なのか判然としておりません。今回記事のため、いくつかの資料にあたったところ、当社の方が優勢なように思いました。例えば、当社の宮司家には『安房忌部家系』伝わっています。

◇鎮座地:千葉県南房総市白浜町滝口1728

◇最寄駅:JR内房線・館山駅~11.2km

◇バス便1:白浜中学校前バス停~450m

 →JRバス関東・南房州線<安房白浜行き>

◇バス便2:長尾橋バス停~600m

 →日東交通・豊房線<安房白浜行き>

◇主祭神:天日鷲命(あめのひわし)

◇相殿神:天太玉命、天富命

     伊弉諾命、伊弉册命

◇御朱印:あり

 

 

当初の予想より美しい境内と清々しい神域に感動でした。

 

 

【参道】

◆社格上位のみならず面積もまた

 神域面積は12,000㎡で、安房国では安房神社に次ぐ広さです。

 

 

下立松原神社は

由布津主命が

祖神である天日鷲命を

祀った神社です

 

 天冨命に率いられた阿波忌部の一族は、房総各地を開拓しました。

 上陸地=布良崎から南東に向かった集団は、太平洋に流れ込む長尾川の河口近くに住み(現・安房白浜のあたり)、半農半漁の生活を営んだとされます。

 

 この集団の長は、由布津主命

天冨命に従って当地に来た阿波忌部一族の「幹部」の1人です。

 

 天冨命が祖父・天太玉命(=忌部氏の祖)を安房神社に祀ったように、由布津主命は、祖父・天日鷲命(=阿波忌部の祖)をこの地に祀りました。

by境内の由緒板など

 

 

◆一之鳥居

 由布津主命の「由布」は木綿(ゆう)を連想させます。木綿すなわち穀(かじ)。これは、麻とともに忌部氏の殖産における代表的な植物です。

参道の長さは約200m。丘の緩やかな傾斜にいくつかの石段を設えています。

石段の右サイドは地層がむき出しになった崖です。

 

◆社叢

 昭和20年代まで、社名にあるように松がたくさんありました。まさに「昼なお暗い」ほど鬱蒼としていたそうです。それが、ことごとく松食い虫の被害に遭いました。さらに、他の木々も2019年の台風でいくつか倒れたそうです。それでも、松以外の木々によって、社叢はなんとか維持されています。

 

 一之鳥居から石段を80数段あがると、開けた場所に出ます。その右側の土手に境内社が鎮座します。

 

◆后神社

 由布津主命の妻を祀った神社です。

御祭神:飯長姫命

いいながひめ

 飯長姫は、天冨命の娘です。天冨命は、当初、娘を安房神社の斎王にしましたが、のちに由布津主命に嫁がせました。

 

 

◆常夜燈

 二の鳥居前にある嘉永2年(1849)に建てられた石灯篭です。

 右塔の台石正面に「洋中」、左に「静寧」の文字があることから、海が安らかで静かなことを祈願しています。

 

 隣の石祠は稲荷社です。

 

◆招魂社

御祭神:英霊

 大東亜戦争(太平洋戦争)で戦死した滝口地区出身の106名を慰霊します。

 

 

 2つの境内社は社叢の中にあって、木漏れ日を浴びつつ静かに鎮座していました。

 どちらも、とても良い雰囲気を醸し出していました。

 

 参道の先に二之鳥居が見えてきました。

 布良崎神社、安房神社と同じく、白色に塗られた神明鳥居です。

 鳥居の台石には「御」「雲」と刻まれ、明治20年(1887)のものでした。

 砂取の器械社中などの刻名が見えます。器械社中とは、あわび漁などを行なう器械潜水夫たちのことだそうです。

 

 

◆狛犬

寛政6年(1794)に滝口村の住民が奉納しました。

 

◆拝殿を遠望

 

◆手水舎

 水盤正面に「無塵浄(むじんじょう)」との文字が刻まれています。「穢れを祓い心身を清める」という意味です。

 

◆拝殿

 延喜式「神名帳」は、安房国の項に6座を記載しています。

 その内訳は安房郡(アワノコホリ)に大社2座、朝夷郡(アサヒナノコホリ)に小社4座。当社は、小4座の1つです。

 

 

主祭神

天日鷲命

あめのひわし

別名:忌部神(いんべのかみ)、麻植神(おえの神)

『日本書紀』や『古語拾遺』に登場します。

阿波国を開拓し、麻や穀を植えて紡績を創始した阿波忌部氏の祖神です。

 

 天照大御神が天岩屋に隠れた時、天日鷲命は、穀(かじ)の木を植えて白和幣(しろにぎて)を作り、天太玉命に献上しました。

 また、岩戸開きの際に弦楽器を弾いていたのも天日鷲命です。弦の先に鷲が降り立ったので演奏する神に鷲の名をつけたとされます。

by『古語拾遺』

図版は神宮徴古館より

 左上:岩戸を開こうとする天手力男命

 右下:笹を振り、激しく舞う天鈿女命

 中央右:御幣を持つ天太玉命

  ※白和幣を制作したのが天日鷲命

 中央左:天児屋命

 

 

相殿神

天太玉命、天富命

伊弉諾命、伊弉册命

→イザナギ・イザナミは、阿波=淡路島が本貫なので、4柱とも阿波国関連です。

また、当地に先住していた海人系の民がイザナギ・イザナミを祀っていたのかも。

 

『日本の神社』-忌部神社・大麻比古神社-において、歴史作家の関裕二氏は、忌部氏の開拓が海人のような拠点選びをしていることに注目。「海」とのつながりを語ります。とくに、忌部氏と安曇氏のつながりを強調しています。

 

 

◆振り返って狛犬を望む

 

◎本家争い

 下立松原神社は、江戸時代の文化文政年代(1804~1830)、2つの論社(滝口と牧田)の間で本家争いが勃発。京都の吉田家に訴状が提出されましたが、証拠不十分で決着しませんでした。

※吉田家=吉田神道の家元。江戸時代は神職に免許状を出していた。今でいう神社庁的な権威と権力でした。

 

 

◆本殿

この覆い殿の中に、神明造の御本殿が鎮座しているそうです。

 

 

安房忌部の元始

◆『安房國忌部家系』より

 天止美命(天富命)は、天太玉命が天上から持ってきた神宝を安房神社に納め、娘である飯長姫命を安房神社に奉仕させます。のちに、飯長姫命は由布都主命と結婚し、その息子=訶多々主命を安房忌部氏の祖としました。 

 

(原文)

「阿八別彦命御合天止美命之子飯長姫命而所生子名訶多々主命是之安房忌部首之元始也。」

 →阿波別彦(=由布都主命)と天冨命の娘・飯長姫が夫婦となり、訶多々主命(堅田主命)が生まれた。是、安房忌部党首の元始なり。

 

※筆者・洲崎神社の記事において、「安房忌部の祖=天冨命」としたのは事実誤認でした。正しくは上記の通りです。お詫びして訂正いたします。当該記事も修正しました。

photo by 国立国会図書館デジタル

 

◆高山家

『安房國忌部家系』は、下立松原神社の宮司家である高山家に伝わっています。

 この家系図を安房神社=岡島家所伝の家系図と比較すると、由布津主命から第18代名美麿(なみまろ)まで、歴代の名は完全に一致しています。

 このことから、18代目まで安房神社と下立松原社を兼務していた可能性を『房総の古社』菱沼氏は指摘しています。

 第18代以降から、両社宮司家の家系図は異なります。

 名美麿の息子の1人、家和和気が松原神社の祝部を務めていることが記されており、ここに下立松原神社の専任神主が始まったと考えられます。天平宝宇五年(761)です。

 

 

 

 

◎境内に式内社がもう1つ

 当社には、もう1つ別の式内社が境内社として合祀されています。

 当社拝殿の向って右に鎮座する「天神社」がそれです。

 延喜式「神名帳」では、安房国・朝夷郡 小社4座のうち、天神社は第1位に記載されています。こちらの神社についての考察は、次回に譲ります。

 

 

【壁画殿】

 昭和15年に「紀元2600年記念事業」として建設されました。内部には、寺崎武男画伯(1883~1967)が奉納した当社の由緒を物語る壁画が展示されています。

 

 宮司家のご家族の方が境内を清掃中でしたが、その手を止めて壁画殿の扉を開けてくれました。そして、壁画の撮影も許可してくれました。

 壁画は、忌部氏の一族を讃える内容で全10点が所蔵・掲示されています。

 ①国防、②斎部廣成、③源頼朝の参篭、④開拓、⑤天日鷲命、⑥由布津主命、⑦飯長姫命、⑧造営、⑨造船、⑩神狩、です。

 10点すべて撮影しましたが、ここでは②⑤⑥⑦⑩を御紹介します。

 

 

②斎部廣成(いんべのひろなり)

 この肖像画は忌部関係の記述に頻出します。奉納された絵画の中に見つけることができたのは幸運でした。

 斎部廣成は、『古語拾遺』を著わして、忌部氏と中臣氏との不平等を朝廷に訴えました。しかし、取り合ってもらえず、忌部氏は衰退の一途を辿ったのです。

 

⑤天日鷲命

 天岩戸神話において、八百万の神は天照大神を天岩戸から誘い出します。その際、阿波忌部の遠祖 天日鷲命は青和幣、白和幣を製作、天太玉命は太御幣を持って祈祷を行なったとされています。

 

⑥由布津主命

 阿波から東国に移動した由布津主命は安房の神々を平定します。手に入れた領土を整え、五穀豊穣をもたらしたので、地元民に歓迎されました。この業績からか、由布津主命は阿八別彦命(アワワケヒコ)という美称でも呼ばれました。by館山市立博物館

 安房開拓と言っても、単純な殖産でなく、軍事力を伴う制圧でもあったのですね。

 

⑦飯長姫命

 天冨命の姫君で、由布津主命の妃となり、ともに関東開拓平定につかせられ、麻および木綿の栽培から機織を隆盛ならしめた優れた女神です。

 

⑩神狩(みかり)

上陸当時、野山には鹿をはじめ害獣が多く、住民が苦しんでいました。由布津主命は狩猟を行い、住民を救いました。これを神徳として、今も神事=「神狩祭」が旧暦11月26日より10日間行われます。この祭りは、安房神社でも斎行されます。

 

 現在は、新手の外来害獣・キョンが異常繁殖しており、そのテリトリーは北上・拡大を続けています。広範な「神狩」が必要かもしれません。

 

 

 

◆紀伊忌部と讃岐忌部

 ここまで、房総半島の南西側にある布良崎神社、洲崎神社、安房神社をご紹介してきました。そして、今回は半島南端となる当社。どれもみな阿波忌部系の神社でした。

 

 次回以降はこの地から東進して房総半島の南東側に向かいます。

 当該地域の式内社(論社を含)は5社。内訳は、阿波忌部系が1社。紀伊忌部や讃岐忌部に連なる神社が3社、天津神系もしくは海神系が1社です。

 

 

【御朱印】

初穂料:300円

拝殿軒下に書置きが用意されています。

社頭から徒歩5分ほどの所に宮司宅があります。そちらに行けば、御朱印帳に墨書してもらえます。

 

 

【参拝ルート】

2023年 5月10日

《安房国の式内社

   &忌部の神々を巡る》

STARTJR津田沼駅7:26→総武線&内房線→9:35館山~館山駅前バス停9:45→JRバス・平砂浦海岸行→10:03安房浜田バス停~20m~①船越鉈切神社 ②海南刀切神社~45m~安房浜田バス停11:09→JRバス・相の浜行→11:18洲崎神社前バス停~160m~③洲崎神社~洲崎神社前バス停12:18→JRバス・相の浜行→12:35相の浜バス停~乗り換え 20m~相の浜バス停12:37→JRバス・安房白浜行→12:45 白浜中学校前バス停~450m~④下立松原神社(滝口) &境内社(⑤天神社)~白浜中学校前バス停13:56→JRバス・館山駅前行→14:04布良崎神社バス停~30m~⑥布良崎神社~布良崎神社バス停14:49→JRバス・館山駅前行→14:52安房神社前バス停~450m~⑦安房神社&忌部塚~安房神社前バス停16:22→JRバス 館山駅前行→16:45館山駅前バス停~190m~ホテル・マイグラントGOAL

 ※翌5/11の神社巡り

 ①下立松原神社(牧田)、②高家神社、③莫越山神社(沓見)、④莫越山神社(宮下) 以上

 

 

【編集後記】

『房総の古社』の著者・菱沼氏が、かつて当社を訪れた際(1960~70年頃)、高山宮司から『安房忌部家系図』を見せてもらったそうです。

 系図は代々の相続者が書き継いできたもので、当時の宮司=高山義丸氏は78代目。氏は大東亜戦争中、軍に召集され、この系図にご自身の名をお書きになった上で出征されたそうです。(了)