2023年 4月4&5日、1泊2日で茨城県の神社をいくつか巡ってきました。

今回は、水戸市内に鎮座する”常陸国 三之宮” である標記神社です。

 

式内社

 吉田神社 

 

『延喜式』に記された社号

  常陸國 那賀郡 7座(大2座・小5座)

→名神大社吉田神社」

 よしたのかみのやしろ

◇鎮座地:茨城県水戸市宮内町3193-2

◇最寄駅:JR常磐線・水戸駅南口~1.6km

◇バス便:水戸駅北口から関東鉄道バス「吉田神社前」下車70m

◇御祭神:日本武尊

◇御朱印:あり

 

 

 

【社頭】

 当社は、水戸市街地南部の小高い丘=朝日山に鎮座します。

創建には、日本武尊の東征との関わりが伝わります。また、朝廷からの強い崇敬を受けた神社で、何度も神階を授かっています。

※江戸時代、全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)を握っていた、あの吉田神社(京都)とは、無関係です。

 

◆一之鳥居

 一之鳥居から拝殿まで、橋を渡り、石段を上り、3つの鳥居と1つの神門をくぐる必要があります。

一之鳥居をくぐると、すぐに石橋があります。

 橋の下は川なら良かったのですが、小さな人工池もしくはお濠のようでした。流水ではなかったような。

 

 

 

◆ご神木

 石段右手の大欅は樹齢約300年。

戦中の水戸空襲の際、社殿と境内の樹木を焼失した中、唯一残った大欅。

 

 

◆二之鳥居

 石段の終点に建立されています。

 

 

◆三之鳥居

  ここから先、神門まで陽光を遮るような樹木はありません。

 広々としているため、やや散漫な雰囲気です。

 

 

御祭神=日本武尊

 以下に、ヤマトタケルの略歴を大まかにおさらいします。

 

 景行天皇(=父)の命令で西国遠征。熊襲や土蜘蛛を討伐ののち東征。その途次、駿河で敵に火攻めされるも「草薙の剣」の活躍で脱出。相模から房総へ渡る際、海が大荒れに。そのとき、后=弟橘姫が人身御供として入水。結果、海は鎮まり上総に上陸。北上して、蝦夷を服従させました。

 蝦夷平定後、日高見~常陸~武蔵~上野~碓日坂≒碓氷峠を経て信濃~尾張に戻り、宮簀媛と結婚。剣を姫に預け、伊吹山の神を討伐に。しかし、返り討ちされ病気になり、能煩野(のぼの・三重県亀山市)にて死去。白鳥に化身し、天に飛翔。

~ウイキを大要約

 

 

◆手水舎

 

 

◆随神門

 神域に邪悪なものが入り込まないよう守護する門。神像を左右に安置しています。

 

 

◆神門から拝殿を遠望

 

 

【創建】by当社所蔵の古文書

◆伝承

 正安4年(1301年)が「御創建以来800余年に当たる」とあり、これより推定すると、顕宗天皇(485)と仁賢天皇(498)の御代の間に遡ることができます。

 

◆記録
 後鳥羽天皇は建久4年(1193年)、国司に勅して社殿を改造せられ、遷宮。

 

 

 

【社殿】

◆拝殿

 

常陸國

第1宮=鹿島神宮(武御雷神)

第2宮=静神社(建葉槌命)

第3宮=当社

 

 

 

 

 常陸國の中枢は 

 ヤマトタケルを 

 天皇と認識していた!? 

 

◆古書における表記の違い

 ◇古事記(712年)

  →倭建命

 

 ◇日本書記(720年)

  →日本武尊

 

 ◇常陸国風土記(721年)

  →倭建天皇 

 

「天皇」称号が使われ始めたのは、天武天皇(?~686年)の世からと言われています。風土記の編纂が始まった713年頃ともなれば、天皇号は普及していたと思われます。にもかかわらず、『常陸国風土記』はヤマトタケルを天皇と記しました。

 何か特別な思いがあって、あえて「天皇」と書いたのでしょうか。

 

 もしかしたら、当時の常陸国には「天皇」号の意味が正確に伝わらずにいたかもしれません。あるいは、風土記の編者に特別な意図はなく、フツーに《ヤマトタケル=国を治める天皇》と考えていたとも考えられます。このあたり、どうなのでしょう。

 

※風土記

 風土記とは、天皇の勅令により編纂された地誌です。現存するのは、常陸国、播磨国、肥前国、豊後国、出雲国の5冊のみ。いずれも原本ではありません。ほかに、逸文が各地に残ります。

 

 筆者が、常陸国総社宮を訪れた際、境内にて「倭建天皇」の文字を初めて目にしました。驚き&違和感を覚えたことが蘇ります。

 

 

◆渡り廊下を潜って本殿へ

 

 

◆本殿

 神明造は、簡素な美しさです。

 

 

 

 

 

 ヤマトタケル

 ヤマトヒメ

 両者の関係は甥と叔母。ともに「ヤマト」の名を冠します。

共通性は名前だけではありません。

両者は《巡り歩き》でも共通します。

 

前者=西国や東国など日本各地を《軍事的に》巡りました。

後者=神鏡を携えて伊勢に到達。畿内各所を《霊的に》巡りました。

 

 これは、ヤマト政権による統治拡大を比喩しているかのようです。

 なぜなら、古代における統治とは「まつりごと」を押えることすなわち軍事権と祭祀権の掌握でした

 

 

 

 

 

◆神楽殿

 

 

◆御神馬舎

 

 

 

 

【日本武尊にまつわる聖地】

◆朝日三角山

 御祭神日本武尊が東夷平定の帰途、この朝日三角山に兵を留めて憩わせた。と、そう言われる神域です。

 この地より尊は朝日を拝み、「ここは良い(吉)田が出来るぞ」と言ったことが「吉田神社」の社名由来です。

この地で日本武尊が四方を展望した、との伝承から「御祭神御遺跡」として縄を張り聖域として立ち入りを禁じています。

この三角山は、本殿が営まれた跡とも、祭祀の跡ともいわれています。

by社伝

 かつて、朝日山の下は海の入江でした。日本武尊は当地に上陸する際、御船を藤蔦でつなぎました。

 朝日山付近の「藤柄」という地名の由来となっています。

 

 

境内図

 

 

【境内社】

 拝殿・本殿の四周に末社を配置。

四神霊獣の名を重ねた末社で四方位を守護します。

 

◆方位守護末社

《白虎》

  ◇飯神社(足仲彦命たらしなかつひこ

  ◇水戸神社(速秋津彦命)

  *足仲彦命:日本武尊と両道入姫命の第2子。のちの仲哀天皇。

 

 

◆方位守護末社

《鳳凰》

  ◇皇太神宮(天照大御神)、豊受大神宮(豊宇氣大神)

  ◇稲荷神社(倉稲魂命)、土師神社(野見宿禰命)

  ◇星宮神社(天御中主命)・稲荷様(倉稲魂命)

*この写真は当社HPより

 

 

◆方位守護末社

《青龍》

 ◇疱瘡守護神社(大己貴命・少彦名命・月讀命)

 ◇大国主事代主神社(大國主命・事代主命)

 ◇八幡宮(誉田別命)

 ◇住吉神社(表筒男命・中筒男命・底筒男命)

 ◇多賀神社(伊邪那美命)

 ◇松尾神社(大山咋命)

 

 

◆方位守護末社

《玄武》

 ◇国見神社(彦國見加岐建與束命)

  ひこくにみかきたけよつか

 →伊勢・豊受大神宮の摂社「度会国御神社」の祭神で度会氏の始祖。

 

 ◇早歳神社(雨道入姫命)

  ふたじいりひめ

 →垂仁天皇の皇女で日本武尊の妃。

 

 

◆吉田天満宮

御祭神:菅原道真公

鳥居や幌舎を備えた重厚な境内社です。

 

 

 

◆割愛した物件

・夫婦神木(椹 さわら):拝殿手前右手

・縁結びの笹:幣殿の左手

この2点の写真は割愛しました、

 

 

【御朱印】

初穂料:300円

《追記》2023.05.09

「ブロ友」さんから、おもしろい情報をご提供いただきました。

→おみくじで「大凶」を引いてしまわれた方には、特別な御朱印が授けられる、とのことです。

御朱印や御守りはこちらの社務所・授与所にて。

 

 

 

【参拝ルート】

2023年 4月 4日

START=JR水戸駅→JR水郡線→静駅~1.6km~①常陸国二之宮 静神社~静駅→水郡線→水戸駅~水戸駅北口バス・3番乗り場→県自動車学校行き→吉田神社前下車~70m~②常陸国三之宮 吉田神社 ~1.2km~『東横イン 水戸駅南口』=GOAL

 

 

 

【編集後記】

◆常陸国の古社を巡る

  今回をもちまして、標記シリーズ5社のご紹介を終えました。

式内社は4社でした。(含、論社1)

 

 静神社:式内社(名神大)、常陸国二宮、旧社格=県社

 吉田神社:式内社(名神大)、常陸国三宮、旧社格=県社

 酒列磯前神社:式内社(名神大)、旧社格=国弊中社

 泉神社:式内社(小社)論、旧社格=郷社

 大甕神社:旧社格=村社

 

 式内社については、これまでに 鹿島神宮(名神大社)、大洗磯前神社(名神大社)、稲田神社(名神大社)、筑波山神社(2座=名神大社&小社)、常陸国総社宮 への参拝を済ませております。

 また。後日、息栖神社(=東国三社)にも参拝しました。結果、常陸国の主要神社は一定数を訪れることができたのかと思います。(了)