皆さま、深夜にこんばんは。

 今回も前回に続き、海神の娘を祀る「海神系神社」のご紹介です。

 

 

 東大社 (とうだいしゃ)

 古くは、東宮または八尾(やつお)社と呼ばれていました。

1102年、堀河天皇から「玉子大明神」の称号を賜りました。海神に縁の神社なので、社号に「玉」があるのは、納得です。

◇鎮座地:千葉県香取郡東庄(とうのしょう)町宮本406

◇最寄駅:JR成田線・下総橘駅~2.4km

◇御祭神:玉依毘売命(タマヨリヒメ)=海神の娘

◇相殿神:鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)=天津神

 →御祭神は、初代天皇=神武の両親にあたります。

◇御朱印:あり

 

 

 

【社頭】

◆大鳥居

 下総橘駅から267号線を南へ。成田線の踏切近くに「東大社参道」と刻まれた石柱を眺めつつ、上り坂を進みます。

 駅から、裏参道の入り口まで約2.2km。そこから、写真の大鳥居まで300mほど回り込みます。

 

 

◆社号標

 社号標に「東海鎮護」の文字。「東海」とは、東国の海という意味合いでしょうか。

 

 

◆手水舎

清らかな水が止めどなく流れます。

 

手水舎から拝殿を遠望

 

 

 

海人族

 海の彼方から渡来し、九州南部、四国の一部、紀伊半島、房総半島、などにたどり着き、定着定住したのが海人族です。彼らは、土着の縄文人たちと共存共栄しました。

 海人族は、海辺の要所を統治し、地祇(=国津神)を奉斎。のちに編まれた『新撰姓氏録』では「神別」に組み込まれていきます。

 海人の祀る各地の神社が一宮へと繋がるケースが少なくありません。海部氏の籠神社、津守氏の住吉大社、尾張氏の熱田大社、など錚々たる大社が海人族系の神社です。

 

 

 

【社殿】

◆拝殿

 拝殿は南向き。文政10年(1827年)に造営。昭和31年に草葺き屋根から銅板屋根へと改修されました。

 

賽銭箱右サイド、重しの下に用意されているのは、『東大社略記』

 

 

 

 

 

玉依姫のこと

 玉依姫には3つの系統があります。

 ①海神系(=当社)

 ②賀茂系

 ③その他

 

 ①神武天皇の母神

 姉・豊玉毘売命が、山幸彦(=穂穂手見命)と結婚。姉は、鰐の姿に戻って出産。それを夫に見られたことを恥じ、 海宮に帰ってしまいます。そこで、妹である玉依毘売命が残された子(=鵜葺草葺不合命)を養育。この御子神は成長し、乳母だった玉依姫を妻とします。この夫婦神の第四子がのちに神武天皇となります。

 

 ②賀茂別雷命の母神

 玉依日売が「瀬見の小川」で川遊びしていました。そこへ、 大山咋神が化した丹塗矢が川上から流来。持ち帰って、寝所に安置しました。ほどなく、玉依日売は妊娠。男子を出産。この子がのちに賀茂別雷命となります。

 

 ③その他

たとえば、大物主大神の妻神

 三輪の地において、ある男が活玉依姫のもとへ夜な夜な通ううち、活玉依姫が妊娠。父母は怪しんで、針を苧玉巻(おだまき:糸を巻く玉)につけ、神の裳にかけさせた。翌日、その糸を辿ると、三諸山に行き着きました。つまり、夜這いしていたのは、大物主神でした。

 

 

◆玉依姫

 腕に抱く赤子は、ウガヤフキアエズです。上総國一宮『玉前神社』参集殿にて撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

◆本殿

 覆い殿は、東西の壁面に格子状の窓が作られていました。湿気対策として風が抜けるようにしたのでしょう。

 

 

本殿の造営は拝殿の1年前。文政9年(1826年)です。築200年ですが、美しく保全されています。

 

 

 

 

◆裏参道から本殿の裏手を遠望

 

 

 

伝承に見る「玉」

 海にあった玉を祀り、御祭神として玉依姫を祀る。

この2点が共通する神社の伝承を以下に記します。

 

◆上総國・一之宮『玉前神社』
 ①海浜の玉

延久二年(1070年)八月、かづさの国一宮・御祭神の御託宣

→当社祭神(玉依姫)懐妊後三年。今が国を治めるときに臨みて若宮を生むと託宣し、   海浜にあった明珠(=玉)が若宮である。

 

 ②海中に玉

『房総志料』

→往昔、この地に塩汲みの翁あり、朝早く潮水を汲んでいたところ、 明珠(=玉)が波間に出没して光彩を放っている のを見つけて、これを持ち帰り、塩室の壁に掛けておいたところ、その夜、光輝くので翁は畏れて玉前神社の神庫に納めた。

 

 

◆下総國・県社『東大社』(当社)

 ③海から霊玉

 康和四年(1102年)に大地震と津波が数日続いたので、堀河天皇が当社神輿を渡御させたところ、災害が収まった。また、 海から霊玉を得た ので、これをご神体とした。

 

 

 

 

 

また、玉依姫とは無縁ですが、「海の玉」つながりをひとつ。

◆伊勢國『二見興玉神社』

夫婦岩の先に地震で海中に没してしまった玉があって、それがサルタヒコの神霊の依り代である、とされている。社名は、沖玉、沖魂から「興玉」となったらしい。

 

 

 

◆神楽殿

 

 

◆神輿庫

 

 

◆弓道場(屋外)

 

 

◆社務所?

 

 

◆不明建屋に置かれた俵

 

 

 

 

 

 

香取神宮との関係

◎『香取神宮小史』(香取神宮社務所) 明治25年=1892年初版

同書のp.40に以下の記述を見つけました。

→(左の五社は、往昔、當宮の攝末社なること、古文書に記される。)

 神崎神社、高房神社、切手神社、東大社、木内神社

 

なんと!当社は香取神宮の元・摂末社の1つに数えられていました!

 

 社殿の大きさや境内の広さなどは、香取神宮の境外摂社(側高神社・返田神社・大戸神社)より大きくて広いと言えます。

 

 以上の事実は、『東大社略記』(無料配布)に一切書かれておりません。

このことから、今日、香取神宮との主従関係はなくなっているもの、と思われます。

 

 

 

 

 

 

【境内社】

◆神明社

本殿の裏手は、東側に鎮座。南面しています。

 

 

御祭神は、おそらく天照大御神

 

 

◆子安宮

 本殿の裏手は、西側に鎮座。東面しています。

 

御祭神は、おそらく木花開耶姫

 

 

◆石祠

 

 

 

【裏参道】

◆神橋

 橋の欄干には「八尾(やつお)橋」の文字。

 

 

 

表参道は石畳で樹木少なめ、裏参道は、むき出しの土面で樹叢。

よって、個人的には裏参道のほうが好きでした。

 

 

 

《参考文献》

・『神々の系譜』松前 健(吉川弘文館)

・『王権の海』千田 稔(角川選書)

・『海人族の古代史』前田速夫(河出書房新社)

・『香取神宮小史』香取神宮社務所

・『サルタヒコのゆくえ』戸矢 学(河出書房新社)

・『銚子市役所HP』

 

 

 

【御朱印】

 初穂料:500円

大鳥居近くに宮司さん宅があり、そちらで拝受しました。

 

 

 

【参拝ルート】

2023年 3月 7日

START=JR成田駅9:41発(成田線 下り)→ 下総橘駅10:36着~90m~①星之宮大神~2.5km~②東大社 →TAXI→下総橘駅 12:26発(成田線 上り)→笹川駅12:31着~600m~③諏訪大神~同社境内「東庄町観光会館」(自転車をレンタル)→4.5km→④豊玉姫神社→450m→⑤良文貝塚層見学→1.7km→⑥瀧大神→2.9km→観光会館(自転車返却)~600m~笹川駅15:34発(成田線 上り)→JR成田駅16:27着=GOAL

 

 

 

【あとがき】

◆式年銚子大神幸

 20年に1回開かれる、銚港神社から白鬚神社までの荘厳華麗な神輿渡御に当社が参加しています。

 今から約900年前の堀河天皇の時代に起きた銚子地方の海荒の際、東大社(東庄町)、雷神社(旭市)、豊玉姫神社(香取市)の三社が海神の怒りを鎮めるため、外川浦へ神輿を渡御したことが起源とされています。(了)