2022年 9月 9日、武蔵国の式内社である、標記神社を訪ねました。
式内社
物部天神社
(もののべ てんじんしゃ)
当社、いまは『北野天神社』という社号です。
歴史的には、当地に勧請された北野天満宮や周辺神社などの合祀を重ねました。
宗教法人としては、『物部天神社 国渭地祇神社 天満天神社』として登録。これを総称して『北野天神社』としています。
◇鎮座地:埼玉県所沢市小手指元町3-28-44
◇最寄駅:西武池袋線・小手指駅から1.7km
◇バス停:北野天神前~156m
(西武バス[小手01]椿峰ニュータウン行)
◇祭神3座
物部天神社:櫛玉饒速日命(くしたま にぎはやひ)
国渭地祇神社:八千矛神(やちほこのかみ)
天満天神社:菅原道真公
◇合祀神:6柱
宗良親王、小手指明神、天穂日命、応神天皇、日本武尊、倉稲魂命
※式内社「出雲伊波比神社」を合祀する、との説もあります。論社です。
◇ご朱印:各種
【参道】
参道は2本
◇南の参道:県道に面しています。(所沢ー青梅)
◇西の参道:旧鎌倉街道に面しています。
昔は、「西参道」が唯一の参道だったと考えられます。
なぜなら、南側は江戸時代の享和年間(1801~04年)に原野を拓いて作った道だからです。
◆南参道・社頭
今は、こちらが「表参道」的な感じです。
◆一之鳥居
一之石鳥居は、享和年間に建立されたものが現存しています。神額は「北埜(の)宮」
◆二之鳥居を遠望
背の高い古木の並木は、気持ち良く歩くことができます。
◆二之鳥居
神額は「北野天満宮」
◆クランク状の参道
参道は突き当ります。右折して、すぐ左折。要は、クランクです。まあ、江戸時代の半ばまで存在しなかった参道です。「一から作る」ならありえない造りですね。
◆手水舎
天井に龍が描かれていることをあとになって知りました。水盤は、コロナ対策仕様で水が流れておりませんでした。
◆拝殿を遠望
左手ポールの根元はマコモを栽培しているのでしょうか。他の場所にもありました。
◆拝殿
大きな賽銭箱には「加賀梅鉢」。これは、加賀・前田家の家紋です。当社を修繕した記録があるようです。ちなみに、山城の北野は梅星紋、太宰府は梅花紋です。
物部天神社は、元々「天津神の社」という意味の天神でした。こうした意味の天神社は、ほかにも散見されます。→布多天神社、大麻止乃豆乃天神社、阿豆佐味天神社、穴沢天神社、湯島天神社など。
のちに「天神信仰」が盛んになった際、(同名のよしみで?)菅原道真公を合祀するようになります。そうすると、当社や布多天神のように、菅公がメインになってしまうケースが現れます。
◆本殿
主祭神:ニギハヤヒ
この神は、天孫=瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)より早くにヤマトの地に降り立ち、王国を築いていました。よって、「ニニギより早い日に」=ニギハヤヒ なのです。
◆本殿と幣殿
この角度から屋根を仰ぐと千木(外削)と鰹木(5本)がハッキリと確認できます。
【物部天神社のこと】
式内社・入間郡五座のうちのひとつ
御祭神:櫛玉饒速日命
◎当地を治めていた物部氏が創建
ヤマトタケルの「東征」に従軍した物部氏。その一部が武蔵に残り、住みついたとされています。
ニギハヤヒを奉斎した人物は、物部直(もののべのあたえ)と考えられています。『続日本紀』は、直が”入間宿禰(いるまのすくね)”姓を賜ったことを伝えています。
これは、物部氏が当地に住んでいた証拠となる公式記録です。
驚くべき事実
古代豪族の筆頭格だった物部氏です。にもかかわらず、氏族名「物部」を冠した神社は、全国にわずか17社しか存在しません。しかも、多くはウマシマジ(=息子)を祭神としています。
物部氏の祖神である《ニギハヤヒを祭神とする物部神社は、たったの2社のみ!》これは、意外でした。2社のうちの1社が当社です。
【国渭地祇神社のこと】
式内社・入間郡五座のうちのひとつ
御祭神:八千矛神
◎物部天神社に合祀
この神様は、大国主神とも大己貴命の荒魂とも言われています。
《社号の「国渭(い)」は「国井」の意。「国」とは「天(あめ)」に対するクニ。国井は大昔から当地にある湧き水を意味するものと思われる》by『武蔵の古社』菱沼勇
つまり、当地において高天原の勢力が及ぶ前から祀られていた神となります。すなわち、物部氏が来る前から祀られていた神=いわば地元神です。
【天満天神社のこと】
京都の北野天満宮を勧請
御祭神:菅原道真
◎物部天神社に合祀
社伝によれば、長徳元年(995年)、武蔵国司である菅原修成が父祖を祀ったとされています。修成は、いちおう菅原家の系図に名が見えます。しかし、経歴不明でした。
天満天神社は、平安時代末期、物部天神社に合祀されました。その後は、当社が本社のような格好になり、今日に至ります。鎌倉時代に衰退しましたが、のちに前田利家が再興しました。だから、神紋が加賀梅鉢なのかもしれません。
【摂社・2社】
①文子天神社
御祭神:多治比文子(たじひのあやこ)
当社HPでは、「菅公の乳母を祀った神社」として紹介されています。
また、京都・文子天満宮のHPでは、菅原道真の没後、乳母であった多治比文子は、「右近の馬場に我を祀れ」と、菅公より託宣を受ける。とありました。
◆巫女・多治比文子
人名辞典(=デジタル版日本人名大辞典)に当たってみたところ、「平安時代中期の巫女。942年、菅原道真の霊を祀るよう神託を受ける。」と書かれており、菅公の乳母との記述はありませんでした。
巫女の立場で乳母などできないと思われるので、巫女か乳母のどちらかでしょうか。いずれにせよ、この女性が「天神信仰」の始祖という位置づけになります。
②小手指神社(=元・航空神社)
地域の日清日露以降の戦没者を慰霊しています。
◎航空神社
主祭神:天照大御神、神武天皇、明治天皇
配祀神:元陸軍航空隊の戦没者及び殉職者・自衛隊の航空殉職者
御由緒:昭和12年 所沢陸軍飛行学校の鎮守社として創建
昭和20年 敗戦の混乱を避けて当社に遷座
昭和40年 軍関係の御霊を碑の形で奈良県の自衛隊施設に奉安
昭和63年 奈良から埼玉の入間基地に奉安
◆航空神社から小手指神社へ
昭和40年を機に小手指神社と改称。小手指地区の戦没者を祀るようになります。
御社殿は、伊勢神宮及び大宮氷川神社の御古材を以て造営されました。この社殿、小手指神社の本殿として引き継がれています。
上記2社のみが摂社となっていること、調べてみて納得でした。
【末社】
◆諸神宮
御祭神:延喜式内3132座の神々
源頼朝が「諸神堂」という名前で創建。それを徳川家光が「諸神宮」と改称したとされています。
◆八雲社と稲荷社
御祭神:須佐之男尊と宇賀之美玉神
八雲社は、本社HPに「天王さま」との別名が記載されています。おそらく、江戸時代まで牛頭天王を祀っていたのでしょう。
◆石宮神社(いしのみや)
御祭神:大己貴神、少彦名命、八重垣大明神(伴部安崇*)
※伴部安崇…垂加神道の学者
合祀社=水天宮
こちらの神社周辺は良い気を感じました。
◆浅間神社
御祭神:木花之佐久夜毘売命
併設社:白幡塚と小祠
元は、小手指原古戦場(当社から1km)付近の古墳と見られる小丘にあった塚でした。市の公園整備のため撤去され当社に遷座しました。7/1には山開きが行われます。
白幡塚(右端)は、前述の戦いで新田義貞が源氏の白旗を立てたという伝説に由来。
左の小祠は、正体不明。磐長姫を祀る小御嶽神社かもしれません。
◆石碑 建空神社
ご神木を撮影したところ、背後にこの石碑が映っていました。建空神社とは、航空神社に合祀されていた神社です。
「(陸軍飛行場の)気球庫北方の傾斜地にあり~中略~参道と思われるところに少年飛行兵の像が残っています。」
byレファレンス協同データベース
~『所沢の文化財と風土』(所沢市教育委員会)に記載あり。
【西側の参道】
◆二之鳥居
冒頭に記したように、鎌倉街道につながるこちらこそが、「表参道」だったのでしょう。この鳥居、古図を見たところ「二之鳥居」と書かれていました。一之鳥居の所在は捜索せず。
◆参道
今は、樹木も少なく地味な参道になっています。
【境外・関連施設】
◆御手洗池
一之鳥居を出て、東に20mほどの場所にその跡が残っています。
古伝によれば、ヤマトタケルが喉を潤すため立ち寄った清泉とのこと。
いま、水面は水生植物に覆われていますが、水はあります。湧水か雨水かは不明。
【境内点描】
◆社務所
御朱印をお願いした際に、御手洗池の所在をお尋ねしました。見学に終えて戻ってきたところ、神職の方から「昔、作られた御手洗池の木製案内板」を見せてもらいました。
◆神馬
藁で制作されています。
◎古社を考える際の目安
式内社か否か
式内社とは、『延喜式』の神名帳に記載された神社を指します。
延喜式が撰出されたのは平安時代中期(927年)。したがって、式内社とは1,000年以上の昔から既に存在していた神社です。
平安時代、まだ辺境の地だった武蔵国であっても、式内社は43社あります。
入間郡(埼玉県のほぼ中央部)は、5座挙げられていて、当社もその1つです。
【御朱印】
初穂料500円
とても丁寧に書かれた墨書から、神さまへの敬意が香ります。
【参考資料】
『神社の古代史』岡田精司(大阪書籍)
『武蔵の古社』菱沼 勇(有峰書店新社)
『ニギハヤヒ』戸矢 学(河出書房新社)
『物部氏の正体』関 裕二(東京書籍)
【編集後記】
◆「総社」だった?
物部天神社は、それ自身が式内社であるほかに、式内社・国渭地祇神社を合祀し、さらに式内社論社・出雲伊波比較神社をも合祀。となると、かつては入間郡の「総社」的な神社だったのかもしれません。入間郡内の名だたる神社を合祀していたからこそ生じた現象と考えることもできそうです。
境内には和歌の歌碑、地名由来碑はじめ石碑が多数ありました。「建空神社」の石碑以外、すべて割愛しました。(了)