式内社

 筑波山神社 

 

『延喜式』神名帳に記された社号

常陸國筑波郡 2座(大1座・小1座)

→筑波山神社(ツクハノ)2座

 

 筑波山は、関東地方に人が住むようになった頃から、信仰の対象として仰がれてきました。山容は二峰が並ぶため、自然に男女二柱の祖神が祀られました。

 

 当社は、筑波山の南面中腹に拝殿があり、これより山上の境内地「筑波山」を御神体として拝する古社です。

◇鎮座地:茨城県つくば市つくば1番地

◇最寄駅:つくばエクスプレス・つくば駅

  →シャトルバスで40分「筑波山神社入口」下車

 

◇御祭神:2座

  →筑波男大神(=伊弉諾尊) 男体山に祀る
  →筑波女大神(=伊弉冊尊) 女体山に祀る

◇御神体:神衣(かんみそ)、筑波山(神体山)

◇御朱印:あり

 

 

「神社入口」でバスを降りた人はわずかでした。車内に残った方々は、1つ先の「つつじヶ丘」からロープウエイ or 徒歩で女体山を目指す方々ということでしょう。

 

 

【山を下りる】

 参拝者は、バス停前の朱色大鳥居をくぐり、緩い上り参道を進むのが一般的です。

しかし、三諸は山を下って「一之鳥居」に向かいました。

 

◆路傍の石祠

 

 

◆「つくば道」

 県道42号線から右折して「つくば道」に入り、約800mほど直線的に下山します。

 

 ※つくば道とは

 寛永3年、徳川家光が筑波山の寺社を再建するため「資材運搬路」を整備しました。それが参道となりました。山麓の北条地域から筑波山神社まで約12kmの道程です。

 

 

 さて、一之鳥居まで800mなら問題なし!と下り始めました。しかし、それは「いつもの感覚(=平場の感覚)」でした。急坂は、長く下っているとソコソコ足にきます。それでも、なんとか一之鳥居にたどりつきました。

 

 

◆一之鳥居

 筑波山神社に現存する、最も古い鳥居とみられています。形式は、笠木と島木にソリがない八幡鳥居。江戸時代、これより上の地域が「ご神域」とされました。

 三諸は、どーしてもここから参拝スタートしたかったのでした。

 

 

◎疲労が懸念された復路

 急勾配の坂道を800mほど上るキツさ。漠然と予想していました。しかし、実際に上がり始めると、とんでもない勾配に心身を打ちのめされました。坂の途中にタクシーの召喚スポットがあること、頷けます。日が射していたので汗だくになりました。

 記事のため調べたところ、この坂は平均斜度14%の「鬼坂」でした。

 

 ちなみに、『神幸祭』では鳥居脇に御仮屋が設けられ、神輿が渡御してきます。そして、次の目的地は大鳥居。つまり、重い神輿を担いで「つくば道」をアップダウンするということ。その凄さを実感しました。

 

 

◆大御堂前のスダジイ

 ここまで来れば、 筑波山神社は目と鼻の先です。神社に隣接する寺院前の巨木に到着した段階で「電池切れ寸前」。ここからが、本番なのにエライことになりました。

 

 

 

【社頭】

◆二之鳥居

 疲労困憊し、ほうほうのていで社頭までたどり着きました。

しかし・・・、不思議なものです。

鳥居をくぐると、疲れが和らぎ始めるではありませんか。

 緑に溶け込むような社号標や定書を目にして、穏やかな気持ちが広がってきました。

 

 

 

【参道】

◆神橋

 寛永10年(1633年)に三代将軍・徳川家光が寄進。

通常、渡橋禁止ですが、春秋の御座替祭(4/1と11/1)、年越祭(2/10&2/11)のときのみ、一般人の渡橋が許されます。

 

 

◆手水舎

 手水舎の先に石段があります。これが「つくば道」と全然違いました。禊したのちは、心身ともフツーに上がって行けるのです。あの疲れはどこへ行ったのでしょう。

 

 

 

 

◆随神門への石段

 神幸祭において、この石段は神輿にとって「見せ場」の1つ。担ぎ手たちは、掛け声に合わせて一気に駆け上がります。

 

 

◆夫婦杉

 ー随身門の西側ー

 ぴったり寄り添って屹立。しかも、根元はキッチリ結合しています。

イザナギ・イザナミをお祀りするなら、これは当たり前のことでしょうか。

 

 

◆兼務社遥拝所

 蠶影神社(蚕影神社)、平澤八幡神社、飯名神社、白瀧神社、以上4つの神社を遥拝することができます。

 

 

◆大杉(=ご神木)

ー随神門の東側ー

周囲9.8m、樹高32m、樹齢800年とされています。

 

 

◆随神門

 二柱の神は、右にトヨキ イリヒコ、左にヤマト タケル。

 

 「昔は、神体山である筑波山をここから遥拝したらしい。」

by玄松子の記憶

 

 

◆拝殿を遠望

 左柱:筑波山神社

 右柱:天壌無窮

 

※天壌無窮の神勅

アマテラスにより号令されました。

天壌(あめつち)(きわまり)無し

 

◇大意◇ 

 日本は、我が子孫が治める国である。これは、天地が永遠に不変であるように、変わらないことである。

 

◇政治的意味◇

 大国主命からの「国譲り」を実現した天照大神。この神勅は、天照大神による統治宣言と言えるでしょう。

 

 

 

◆拝殿

 ・鎌倉時代

 建久2年(1191年)源頼朝は上総介広常、千葉介常胤などの武将を従えて当社に参詣、神領を寄進す。

 

 ・幕末~明治時代

 筑波山事件(→水戸藩・藤田東湖の息子=小四郎が尊王攘夷の挙兵)を経て明治維新。神仏が分離されて神社のみとなりました。明治6年に県社。

 

◆御祭神について

祭神が伊弉諾尊、伊弉冉尊と確定したのは、比較的新しい話です。

・明治12年:『神社明細帳』

  →祭神不詳

 

・明治42年:同帳の改定

  →筑波男大神・筑波女大神

 

・大正14年:再改定

  →伊弉諾尊、伊弉冉尊

 

 

◆御神水

 拝殿と授与所を結ぶ渡り廊下の先にあります。

 水源は、十一面観音を安置する筑波山内の神窟。

 神水は、水盤の底から微量が湧き出る感じです。

 

 

 境内では、ご神木から「ご神気」を、随神門では、トヨキイリヒコとヤマトタケルノミコトからの「激励」をそれそれ拝受。

ここに至って、体内にチカラがみなぎってくるではないですか!

 

 こうなれば、勢いに乗るのみ。

春日神社・日枝神社から奥に進み、愛宕山神社・八幡神社に参拝。筑波山神社のあとは厳島神社にも参拝しました。

 

 

【境内末社】

◆春日神社・日枝神社に向かう

 「つくば道」を経験したので、この程度の石段など、もはやなんでもないです。

 

 

◆拝殿

 

 

◆本殿

左:春日神社(武甕槌神、経津主神、天兒屋根神)

右:日枝神社(大山咋神)

 

 

◆愛宕山神社

 詳細不明。京都の愛宕山頂にある愛宕神社の系譜に属する神社かと思われます。江戸時代、修験者によってもたらさられた可能性大です。正式な勧請か否か不明。

 

 いわゆる「愛宕信仰」だとするなら、伊邪那美神と勝軍地蔵菩薩を習合した愛宕権現となり、火之迦具土神と一緒に祀られます。

 

 

◆厳島神社

 琵琶湖の竹生島からの勧請です。

 

 

祭神:市杵島姫命

 

 

 

◎ここまでは「いつも通り」

 一之鳥居を見るための「つくば道」往復ではダメージを受けましたが、それ以外は、順調に筑波山神社と境内社を5社巡り、いつもと変わらぬ神社参拝でした。

 

 

 

次は、男体山と女体山への「登山」です。

この先は、いつもと様子が異なりました。

 

 

 

【神体山=筑波山】

 標高877m。筑波山神社の境内地で西側の男体山と東側の女体山から成っています。

※写真は筑西市観光協会HPより拝借

 

 

◎富士山と筑波山について

『常陸国風土記』より

 

神祖が、諸神のもとを訪ね歩いていた。

 

富士山で宿を乞うと、

「新嘗祭の最中で、物忌中」と断られた。
そこで、神祖は怒って呪詛。富士山は、一年中雪や霜で被われる地となった。
 

筑波山で宿を乞うと、

「新嘗祭ですが、請けないわけにはまいりません」と飲食を用意してもてなした。
そこで、神祖は喜んで言祝ぎした。よって、いつまでも実りの多い土地となった。

~『玄松子の記憶』より抜粋・要約

 

 

 

◆石碑「之より男体山」

この石碑前に立った頃から、天候が次第に悪化してきました。

 

 

◆御幸ヶ原登山道入り口

  筑波山神社の境内から男体山頂上の御本殿までを結ぶ登山道。古来、「表参道」と呼ばれています。よって、鳥居があります。この先、山頂まで1時間30分を要します。

 

 

◆ケーブルカー

 境内に隣接する、宮脇駅から山頂駅まで、高低差495mを8分で結びます。

 

 筆者は、当たり前にケーブルカーを利用しました。

小窓を開放した車内は、強烈な湿気に支配されました。※写真は観光協会HPから拝借。

 

 

◆男体山の頂きに向かう

 頂上駅では肌寒さを感じました。天気情報板に「湿度98%」と表示されていました。

 

 また、『見どころMAP』には「男体山頂上への登山道や女体山方面への連絡道は、事故が多発する石の多い登山道です。雨上がりなど、滑りやすく注意が必要です。」と書かれていて、ビビリました。

 

 

◆山頂への登山道

 霧が濃く、視界は10m程度。登山道は、雨や霧に濡れて危険な状態でした。

 

 

◆道祖神らしき石像

 頂上付近です。

 

 

◆男体山頂

 足場&視界が悪く、滑落の危険と隣り合わせでしたが、なんとか辿り着けました。


 

 

◆男体山御本殿

御祭神:筑波男神=伊弉諾尊

 

 

付近に、常陸帯神社(ひたちおび神社)があるはずなのですが、それを捜索する余裕はありませんでした。

 

※常陸帯神社
 神功皇后が三韓征伐のおり、敵国降伏を勅願、併せて応神天皇御懐妊の安産を祈った。凱旋後、御腹帯が筑波山神社に納められたことから、常陸帯宮が創祀されたという。

 

 

◆気象観測所(跡地?)

霧にむせぶ幻想的な雰囲気でしたのでパチリ。

 

 

◆下山

 登り以上に緊張を強いられた復路でした。

あまたある晴天写真からは感じることができない神秘的な雰囲気を体験できました。

 

 

◆連絡路

男体山と女体山をつなぐ連絡登山道。御幸ヶ原付近は歩きやすい平坦な道でした。要は、「尾根歩き」ということでしょうか。

 

 

◆鶺鴒石

  イザナギとイザナミは、この石の上で交尾する鶺鴒に触発されて「国生み」を行ったとされています。

 この鶺鴒の「しぐさ」が神前結婚式における三・三・九度に受け継がれています。

 

 

◆諏訪神社・鶺鴒稲荷神社

御祭神:おそらく、建御名方神・倉稲魂命

 

 

◆女体山頂上付近

 注連縄が張られています。この岩場に差し掛かったあたりから天候は急速に悪化。雨は土砂降りとなりました。

 

 

◆女体山御本殿

 女体山の頂上(877m)に鎮座

御祭神:筑波女神=伊弉冉尊

 

 

 

 

◆天浮橋(あめのうきはし)

 記紀に登場します。どちらも「天空に浮かぶ橋。天上から地上世界へと降りてくる途中にある橋」としています。

 この橋に立った伊弉諾尊と伊弉冉尊。共に計り、「天之瓊矛(あめのぬほこ)を指し下して探ってみると海を獲た。その矛先から滴り落ちた潮が凝り固まり、一つの嶋と成った。それを名付けて磤馭慮島(オノゴロシマ)といった。」

by日本書紀 巻第一(神代上)

 

 

 

◎つくば~その地名由来

『常陸国 風土記』の文章より。

 →「昔、当地は紀の国と言われていた。崇神天皇の御代、筑箪命(つくはのみこと)*が国造として派遣された。その際、この国に自分の名をつけて後の世まで残したい、と、国名を変えた。」

『玄松子の記憶』より抜粋・要約

 

*筑箪命

 この人物は、物部氏の一族と言われています。国造就任以来、この家系が祭政一致で筑波山神社に奉仕しました。

by当社公式HP

 

 

 ◎良い1日でした

今回、1か月以上間隔が空いた神社参拝でした。参拝当日の朝、千葉県は雨でした。しかし、筑波山の天気予報は午後に「雨→曇り」でしたし、ずっと楽しみにしていたので無理筋でしたが出発しました。

 

 いろいろな事がありましたが、総合的には良い神社巡りができた。

と、そう思っています。

 

 

 

【御朱印】

初穂料=各500円

今回は、以下の3種を拝受。

授与所ではこれから男体山と女体山の山頂に向かう旨、お伝えしました。にもかかわらず、「遥拝」と押印されてしまいました。不服です^^;

 

◆筑波山神社

 

 

◆男体山御本殿

 

 

◆女体山御本殿

 

 

 

【参拝ルート】

2022.09.01

START=つくばエクスプレス・つくば駅~50m~つくばセンター(=バスのりば)→筑波山シャトル→筑波山神社入口~35m~筑波山観光案内所~400m~「つくば道」~下り700m~ ①一之鳥居 ~「つくば道」など上り850m~大御堂前の巨樹~200m~ ②筑波山神社&境内末社 ~ケーブルカー宮脇駅→8分→ケーブルカー山頂駅~展望台レストラン(=昼食)~男体山登山道~ ③男体山頂 御本殿 ~下山~御幸ヶ原・連絡道~女体山登山道~ ④女体山頂 御本殿 &天浮橋~下山~ロープウエイ女体山駅→6分→つつじヶ丘駅~つつじヶ丘バス停→筑波山シャトル→つくばセンター~つくば駅=GOAL

 

 

【編集後記】

◆天候が大きく変化

 山麓近く:曇り時々晴

 中腹・拝殿:曇り

 山頂・本殿:霧や雨

と変化。陽光が差すと汗だくになったり、雨で肌寒かったりと、かなり疲れました。

 

◆筑波山きっぷ

 ・往復乗車券:つくばエクスプレス、筑波山シャトルバス

 ・乗り放題券:ケーブルカー、ロープウエイ、つつじヶ丘ー筑波山神社を結ぶバス

以上がセットされた”おトクなきっぷ”を南流山駅で購入しました。

各区間を片道券として計算したところ、個別購入より800円もお安くなっていました。(了)