国史見在社(げんざいしゃ)

 俵田 白山神社 

(たわらだ しろやま)

変更前の社号=田原神社

 

 当社は、壬申の乱における「悲劇の皇子」=大友皇子を祀っています。

緑が豊かな美しい古社は、前方後円墳が隣接します。

◇鎮座地:千葉県君津市俵田1452

◇最寄駅:JR久留里線・俵田駅or小櫃駅

 (→木更津駅から38分で上記駅~1km)

◇御祭神:大友皇子、菊理比売神

◇御朱印:たぶんありません。

 

 

 

【国史見在社】

 当社は、国史見在社の「田原神社」 に比定されます。 

 

 一般に、古社と言えば『延喜式』神名帳に記載された神社が想起されます。

このほか、国家が編纂した正史に授位などが記録された神社が存在します。

これを「国史見在社」と称します。

 

 正史とは、いわゆる『六国史』を指します。

すなわち、①日本書記、②続日本紀、③日本後記、④続日本後記、⑤文徳天皇実録、⑥日本三代実録、の6種。720年~901年の期間に編まれました。

 

 最も新しい『三代実録』であっても、『延喜式-神名帳』より40年ほど先に世に出ています。

よって、国史現在社は式内社に劣らない古社と言えます。

 

 

 

【参道】

 地名について。元は田原田と書きました。良字にする意味で俵田となりました。

 

◆一之鳥居

当社が白山(しろやま)神社と改称したのは、明治初年の神仏分離のとき。それまでは、白山大権現と称し、神仏混淆でした。

 

 

◆右手にスロープ

 一之鳥居をくぐった右手にスロープが造られています。

当社拝殿には「田原神社」文政12年(1829年)と揮毫された額が掲げられている。当社が『三大実録』で従五位下を授けられた田原神社であることに異説を聞かない。

by『房総の古社』菱沼勇(有峰書店)

 

 

◆二之鳥居

木製の両部鳥居です。

 

 

◆常夜燈と石段

 このあたりから、早くも清澄な雰囲気を漂わせています。

 

 

◆しっとり

 前日まで雨が続いたため、石段が水分を帯びています。また、木々も生き生きとしています。

 

 

◆手水舎

 石段を上り切ってから、手水舎を見下ろしました。

 

 

◆水量豊かな手水

 湧き水が手水舎と背後の池に注ぎます。転落防止のためのネットが張られています。

 

 

◆緑がまぶしい石段

 緑に囲まれた随神門を遠望。美しいです。

 

 

◆二之鳥居を振り返る

 石段を上り切って、随神門から後ろを振り返りました。

 

 

◆随神門

気配はさらに良くなります。

 

 

 

 

◆拝殿を遠望

 随神門入口から拝殿を望む

 

 

 

 

 

 

 

 

◆拝殿前庭から振り返る

 石段を上り、拝殿前庭から随神門を眺めました。またぞろ美しい図を見ることができました。

 

 

◆拝殿内部

 画面左手に「田原神社」と揮毫された、古い神額が見えます。

 

 

 

◆「壬申の乱」の伏線

 当時、皇位は兄弟間で継承されるのが常識でした。

 

㉗安閑・㉘宣化・㉙欽明の3兄弟

㉚敏達・㉛用命・㉜崇峻・㉝推古(女帝)の4兄弟

さかのぼって

⑰履中・⑱反正・⑲尤恭の3兄弟

⑳雄略・㉑安康の兄弟、㉓顕宗・㉔仁賢の兄弟

など、その例は枚挙にいとまがありません。

 

 したがって、斉明天皇の死後、中大兄皇子(=天智天皇)・大海人皇子の兄弟が皇位を継ぐ。これは、当然と思われていました。しかも、大海人は、天智天皇に重用されていたのです。

 

 しかし、天智天皇は、弟ではなく、息子である大友皇子を天皇にしたい、と考えるようになりました。そのため、天智と大海人の関係は、険悪になっていきました。

 

 

◆壬申の乱

 天智は晩年病に伏すようになりました。大友皇子を太政大臣にしたあと、枕元に大海人を呼び、「皇位を譲りたい」と告げます。しかし、大海人はそれを拒否。出家して天智の健康を祈りたい、と回答。受諾すると「謀反の計あり」と、断罪されるのを恐れたためでした。

 

 大海人は、剃髪して吉野に隠棲します。1年半後、天智の崩御を知った大海人は、大友皇子を倒すべく挙兵。結果は、大海人が勝利して即位。のちに、天武天皇と呼ばれます。

 

 

 

◆本殿

 千木は外削、鰹木は奇数(=5本)

この装飾様式は、男性神を祀るサインです。

 

 

◆祭神について

 繰り返しますが、当社は田原神社から白山神社へと社号変更しました。

現在は、大友皇子&菊理姫命となっています。

 

 菊理姫は、本来「白山神社」の祭神です。

よって、 元々は田原神社=《大友皇子・1座》 

だったのでしょう。

 

 

◆本殿の内陣

2つの伝承物件が安置されています。

 ①大友皇子像と伝わる、古い軍装木像

 ②大友皇子の首を入れたと伝わる手桶

 

 

 

 

 

 

【境内社】

◆水天宮

祭神:おそらく、天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼

 こちらもなかなか良い雰囲気でした。

 

 

◆寄せ宮

向かって右から順に

①八坂神社、②皇産霊神社、③子安神社、④子守神社、⑤天王社、⑥八幡社、⑦神明社、⑧熊野社

 

*①と⑤には神輿が入っていました。

⑤は牛頭天王の社でしょう。

→素戔嗚尊の社殿を選んで神輿を安置しています。

 

 

 

拝殿に向かって右手から境内を出ます。

(本殿の後ろに大きな古墳があります。)

 

 

◆小さな社殿

 古墳への通路となる細道。右手のマウンドに小祠。左手は古墳です。

 

 

◆浅間神社

祭神:木花開耶姫命

 小さな社殿には、浅間神社と揮毫された神額が掲げられていました。

 

 

 

◆俗称:瓢箪塚

 古墳は、横から見ると、ひょうたんの形をしており、「瓢箪塚」と呼ばれています。

入り口となる石段を上ったら、右サイドに回り込み、奥へと進みます。

 

 

◆正式名:白山神社古墳

種類は、前方後円墳。全長88m、後円部の高さ10m。明治の発掘では、古鏡(獣形鏡)、直刀、鉄族などが出土。

by案内板(千葉県教育委員会)

 

 画面左手は方墳。この斜面を登ってみました。

 

 

◆里人の伝承

 この古墳は、大友皇子を葬った陵墓であるという。

大友皇子は、天智天皇崩御ののち、「壬申の乱」を起こした大海人皇子に敗れ、山前の地で自死。

 しかし、房総では否です。

皇子は、死を装って東国=上総に逃れ、遣水山に築城して「小川宮」を営んだ。最終的には、大海人皇子軍の追撃を受けて戦死。この宮跡がすなわち当地である、と。

by「君津市の歴史」(君津地方 情報館)

 

 

◆方墳の頂にて

 本殿がこのような姿で視界に入ってきます。

 

 

◆学術的な見解

 この古墳は、大友皇子の陵墓ではありません。

なぜなら・・・

 ①大友皇子の死去は8世紀の後半

 ②古墳は5世紀前半の築造と推定

 

①・②から

古墳は、初期の頃の馬来田国造(まくた)を葬ったものと思われる。

by前出『房総の古社』

 

 とはいえ、地域の人たちの間には、古墳や神社などに大友皇子を重ねた伝説が、脈々と伝えられてきたことは事実です。

 

 

 

◎大友皇子を祀るようになった起縁

 当地の付近一帯が、かつて大友皇子の屯倉*として、その所領に属していたのではなかろうか、と推測される。

by前出『房総の古社』

屯倉は、大化の改新で廃止されました。しかし、屯倉を媒介として、里人たちと大友皇子との縁が当地に残っていたため、祀られるようになったのではないか、と読み取ることができます。

 

*屯倉(みやけ)

 みやけの「ミ」は敬語、「ヤケ」は家宅のこと。

ヤマト政権の直接経営の倉庫などを表した語で、直接経営の土地も含めて屯倉と呼んだ。

byウイキ

 

 

 

【御朱印】

ありません。

 

 

 

【参拝ルート】2021年 5月14日

START=千葉駅 8:24発→JR内房線→木更津駅 9:03着~乗り換え~木更津駅 9:16発→JR久留里線→ 小櫃駅 9:54着~1km~①俵田白山神社 ~小櫃駅 11:13発→JR久留里線→下郡駅 11:17着~1.9km~②十二所神社~下郡駅 13:08発→JR久留里線→木更津駅 13:37着~乗り換え~木更津駅 13:44発→JR内房線→袖ケ浦駅~600m~③福王神社~袖ケ浦駅 14:48発→JR内房線→千葉駅 15:26着=GOAL

※②の祭神=大友皇子の御妃:耳面刀自(みみもとじ)

※③の祭神=大友皇子の御子:福王丸

 

 

 

【編集後記】

◆大友皇子に縁ある語句

・小櫃(おびつ)

 皇子の櫃を埋葬したことによる地名由来。

 

・御腹川

 皇子が腹を切った川との伝承あり。筆者は、小櫃駅から当社に向かう際、渡河しました。

→「腹を切る」という儀式が古代にあったのでしょうか。これは、武士たちが台頭した時代以降の死に方のような気がします。

 

 

◆素晴らしい神社

 大友皇子を祭神とした神社は、2社とも良い雰囲気でした。

 

◇飯給白山神社・小湊鉄道「飯給駅」

◇俵田白山神社・久留里線「小櫃駅」

 

ともに、房総半島中央部、人気鉄道路線、社号、などが共通する、素敵な神社でした。(了)