上総國・総社
戸隠神社
創建は、天平12年(740年)。国分寺守護のために降臨した戸隠大明神を奉斎。
923年には、上総国の諸神を集めて総社としました。by当社由緒書
◇鎮座地:千葉県市原市惣社4-9-18
◇最寄駅:JR内房線・五井駅
→小湊バス・国分寺台バス停から550m
◇御祭神:思兼命、天手力雄命、表春命
◇御朱印:あり
→五井大宮神社にて授与
※表春命(うわはるのみこと)
思兼神の御子神。弟神=天下春命(あめのしたはる)は、武蔵一宮の祭神。
この兄弟は、饒速日命が天降った時、護衛として随従した32神のうちの2柱です。
【表参道】
◆鳥居
【禊・祓え】
◆手水舎
水道水を水盤になみなみと溜め、その上で蛇口から流れる水を用いて心身を清めました。
◆祓戸大神
老木を背にした石碑には「祓戸大神」と刻まれていました。紙垂は新しいものでした。
瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神あるいは祓戸大神といいます。
祓戸大神は、あらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されています。
手水舎ー祓戸大神ー拝殿
この3点で構成される領域は「良好な気」が漂っていました。
【社殿】
◆拝殿
御祭神の3柱は、信濃・戸隠神社の祭神と同一です。
天手力雄命=奥社
思兼命=中社
表春命=宝光社
にて、それぞれ祀られています。
祭神のうち、思兼命と天手力雄命は、「天岩戸神話」において重要な役割を果たします。
岩戸に隠れたアマテラスでした。
この世に戻ってもらうための作戦計画を思兼命が立案、岩戸をこじ開ける実行部隊の1柱が天手力雄命です。
◆戸隠山
「天岩戸神話」において、天手力雄命が天照大御神を引きずりだし際、岩戸を放り投げました。宙を舞った岩戸が信州の当地に落ち、それが戸隠山となったとの伝承があります。
図版は、『香取神宮 年中行事絵巻』を描いた小幡春生(しゅんせい)画伯による「天岩戸」。
香取神宮 宝物館に展示されていました。
◆本殿
当社は、無人社のため社務所がありませんでした。
さらには、神楽殿や神輿庫などもありませんでした。
【境内社】
①拝殿に向かって右手
小高い場所に2社が鎮座。2本の参道は、斜面に置かれた飛石を登っていきます。
◆天神宮
◆上総伏見稲荷神社
②拝殿に向って左手
◆金刀比羅宮
◆寄せ宮
小社殿:子安神社
右から、石碑「大杉神社・八坂神社・子安神社」、石祠:熊野神社、不明な石祠、十二所神社、疱瘡神社
③表参道石段の頂上付近
◆富士塚・浅間神社
鳥居の先に、二之鳥居と富士塚があります。
また、別途、表参道石段・上り口の隣に登山道が造られています。
◆頂上からの眺め
登頂を禁止していなかったので、登りました。
◆富士塚登山道
当社表参道の石段を上らず、ダイレクトに富士塚&浅間神社に向かう際の登山口です。
◆飛石
土の斜面に足を滑らさないよう、石や木で登山道を作っています。
◆木道
◆道祖神
小高い丘に建てられた当社。この道祖神は言わば山麓の茂みの中です。
◆裏参道
こちらから入ると、本殿の裏手に出ます。
【御朱印】
五井大宮神社にて拝受しました。
【参拝ルート】
2021年 4月27日
START=JR内房線・五井駅~駅西口バス乗り場→小湊バス・姉ヶ崎行き(10分間)→ 前川橋バス停~400m~①島穴神社~850m~②島穴神社元宮~800m~宮司さん宅~500m~島野バス停→小湊バス・八幡宿行き(8分間)→五井駅西口~駅東口バス乗り場→小湊バス・国分寺台行き(9分間)→国分寺台中学校バス停~200m~神門5号古墳~200m~上総国分寺跡~250m~③戸隠神社 ~550m~国分寺台中学校バス停→小湊バス・五井駅行き→五井駅東口~五井駅西口~800m~④五井大宮神社~五井駅=GOAL
【編集後記】
◆アクセス情報
①五井駅から小湊鉄道
→上総村上駅下車~900m
②五井駅から小湊バス(ちはら台行き)
→戸隠神社前下車~200m
③五井駅から小湊バス(国分寺台行き)
→国分寺台中学校下車~550m
◎ベストは③
・1時間あたりの便数が圧倒的に多い。②の便数は論外。
・古墳や国分寺跡などの見所も効率よく回れる。
◆付近の旧跡
最寄りバス停から当社に向かう途中に存在します。
当地が古墳時代や奈良時代から栄えていたことを裏付ける旧跡です。
①神戸(ごうど)古墳群
こちらは5号古墳。墳丘がしっかりと姿をとどめています。
前方部が未発達な前方後円墳、とのこと。
②上総国分寺跡
奈良時代に聖武天皇の詔により、日本各地に国分寺が建立されました。
当寺院は、上総国・国分寺の後継寺院にあたります。
旧・国分寺は応永年間(1394~1427年)頃までの存続は確認されています。その後は荒廃していました。写真は、江戸時代に建てられた仁王門。
◆上総国総社 候補はもう1社
当社のほかに、飯香岡八幡宮も総社とされています。
→天平宝字3年(759年)、勅命により一国一社の八幡宮となり、国府総社と称せられる。byウイキ
当社と飯香岡八幡宮のどちらが総社なのか、ハッキリしません。
ただ、当社の近くに国分寺と国分尼寺の跡があり、住所が「惣社」であること。
また、上総国国府の地はおそらくこの辺り(未発見)であろう、という知見があること。
などから、当社が総社のような気がします。
◆オススメな神社
総社か否かは横に置き、神社としての雰囲気はどうなのか。これは、オススメできるレベルの清々しさがあると思います。(了)