香取神宮・境内摂社
匝瑳神社
(そうさ神社)
《本殿の最も近くに鎮座》
香取神宮には摂社・末社が合わせて30社(*)あります。
全ての摂社・末社の中で、当社は本殿にもっとも近い場所に鎮座します。
*=『香取神宮小史』香取神宮社務所 編)
◇鎮座地:香取神宮の斎庭(ゆにわ)
◇最寄駅:JR成田線
→香取駅から赤鳥居まで 2.1km
→佐原駅から赤鳥居まで 3.6km
(佐原駅=バスorレンタサイクルあり)
◇御祭神:磐筒男神、磐筒女神
◇御朱印:なし
(香取神宮には4種類の御朱印があります。)
◎どれだけ本殿に近いのか
匝瑳神社から本殿を望みました。その距離、わずか20~30メートルです。
【匝瑳神社への道順】
亀甲山に鎮座する香取神宮。
表参道は、赤鳥居から始まります。玉砂利が敷かれた緩やかな坂道を上っていきます。
◆総門
端正な美しさの総門。ここをくぐると、正面に手水舎です。
◆手水舎
あえて「コロナ以前」の写真を載せました。
豪快な水勢、特徴的な柄杓。残念ながら、今は見ることができません。
◆楼門
女性的な雰囲気の優美な楼門です。
【斎庭】
楼門の内側が「斎庭(ゆにわ)」です。
当社●は、拝殿の左手を進みます。
拝殿の左手へ進み、回廊・神饌殿・三本杉の隣が匝瑳神社です。
◆神饌殿
◆三本杉
【匝瑳について】
①地名由来
この地名は、東大寺正倉院に伝わる庸・調(朝廷に納めた特産物)の記録が最古です。
天平13年(741年)のそれです。
②匝瑳の語源
「さふさ」という地名が先にありました。
「さ」は「狭」で美しい、「ふさ」は「布佐」で麻の意で、“美しい麻のとれる土地”であったとする説があります。(諸説アリ)
匝瑳と言う文字は、「さふさ」に縁起のよい漢字を充てたものと考えられています。
by匝瑳市役所HP
【物部小事の登場】
『続日本後紀』によれば、5世紀から6世紀にかけて、畿内の豪族=物部小事(もののべのおごと)が坂東(現・関東地方)を征討。その勲功によって、朝廷から下海上国*(しもうながみ国)の一部を拝領。小事は、その地を匝瑳国としました。
(*)当時、下総国はまだ存在しません。
by『房総の古社』菱沼 勇(有峰書店)
香取神宮・境内摂社
【匝瑳神社】
◆経津主大神の親神
当社祭神:磐筒男神、磐筒女神
この2柱は、香取神宮の祭神である経津主大神の御親神です。
◆社号のこと
例えば、経津主大神の祖父母にあたる、磐裂神・根裂神(いわさく・ねさく)を祀る境内社があります。その社号は「裂々神社(さくさく)」、そのまんまです。
これに倣えば、当社は「磐筒神社」か「筒々神社」で良さそうなのですが、そうではありません。
この境内社は
なぜ、匝瑳神社と命名されたのでしょう
結論(仮説)を先に書きます。
当社のかつての祭神が
物部小事(=匝瑳大明神)だからです。
香取神宮の祭神は、斎主神。
すなわち物部小事の娘。
匝瑳神社の祭神は、物部小事。
香取神宮本殿と匝瑳神社の関係
=御子神と御親神
「子と親」という関係性
これは、経津主大神と磐筒神に形を変えて、現在も踏襲されている。
◆匝瑳の人々
①匝瑳神社の造り替えは、匝瑳の人々しか担当できませんでした。
②匝瑳郡には、総鎮守・老尾神社があり、祭神は匝瑳大明神でした。
☆写真:匝瑳市 老尾神社(2021/4)
◆物部小事の子孫
小事は匝瑳の地を開拓。その子孫は、当地に住みつき物部匝瑳氏を名乗りました。
となれば、
物部匝瑳氏が、先祖・物部小事を一族の守護神として祀ったであろうことは想像に難くないのです。
◆本殿を見つめる
今現在、磐筒神は本殿に鎮座する我が子=経津主大神を見つめ続けています。
【香取神宮・祭神との関係】
奈良時代から平安時代半ばにおける朝廷の公式記録では・・・
香取神宮の祭神を経津主神と記述しておりません。
例えば、『続日本後紀』の記述
→下総国香取郡従三位伊波比主命に正三位を授け奉る。
このほか、日本書記や文徳天皇実録などでも然りです。
つまり、香取神宮の祭神は
伊波比主命(=斎主神)
でした。
by前出・『房総の古社』
◆斎主と「斎主の神」
斎主とは、神を斎き祀る人を指します。
祭祀する側であって、祭祀される側ではありません。
一方、「斎主の神」は祭祀の対象。
これは、斎主が神格化されたもの。元は、ある神の祭祀をしていた方がいた。この方が死去。のちに、この方が神として祀られて「斎主の神」となります。
◆香取の斎主が祀った神
香取海をへだて、対岸に鎮座する フツノミタマの神を祀っていたのではないでしょうか。つまり、香島(=鹿島)の神を祀っていたのでは、ということ。
現に、鹿島神宮には《御神体=フツノミタマの剣》が伝わっています。
(参考)鹿島=フツノミタマ
『釈日本紀』(中世の日本書紀・注釈書)の記述によれば
→「今 常陸に坐す鹿島大神、また石上布都大神是なり」
=鹿島大神は、石上神宮のフツノミタマと同神である。
by前出・『房総の古社』
香取の斎主が祀った神=香島のフツノミタマの神
それでは、斎主とは誰だったのでしょう。
◆斎主とは誰か
それは、フツノミタマを氏神とする氏族。すなわち、物部の一族ではなかろうか、と想像できます。そして、5~6世紀頃、物部小事が東国に派遣された「史実」は既に書いた通りです。
こうした状況証拠を元に、菱沼勇氏は次のように語ります。
「斎主とは、物部小事の母親ではないだろうか。」
◆菱沼氏説の問題点
上記、菱沼氏の説には問題があります。
なるほど、神を斎き祀るのは女性です。 しかし、母親はいけません。
神に奉仕する女性は、絶対的に処女でなければならないのです。
となると
斎主とは、小事の娘だったのではないか。
のちに、この娘が神格化され、「斎主の神」になった。
と、三諸はそう考えます。
香取神宮本殿で《伊波比主大神=物部小事の娘》を祀り、
本殿に最も近い社殿に《匝瑳大明神=物部小事》を祀る。
となれば、
この境内社の社号が「匝瑳神社」となることに納得できます。
◆親子関係の構図
これは、今日まで踏襲されています。
香取神宮の本殿=経津主大神
最も近い境内社=磐筒男神・磐筒女神
本殿に御子神、境内社に御親神です。
◆危機管理
斎主がフツノミタマを鹿島の地でなく、香取の地で祭祀したこと。これは、危機管理の問題。女性にとって、香取海を隔てた香取は鹿島より安全です。鹿島は、言わば「対 蝦夷」の最前線ですから。
※図版:千葉県立中央博物館より
以上、『房総の古社』菱沼 勇氏の言説、三諸の推測と調査・学習に基づいた今回記事はここまでです。今後も、気づきがあれば随時、加筆修正していくつもりです。
【人気(ひとけ)のない参道】
表参道と並行して、山の斜面に造られた雰囲気の良い参道があります。その写真を3枚。
三之鳥居の前で表参道と合流します。
◆休石(やすみいし)
ベンチ&テーブルではありません。休石です。風情がある、美しい名称です。
【御朱印】
匝瑳神社のご朱印はありません。香取神宮の通常版をアップします。
【モデル・ルート】
経津主大神ファミリーを巡る
START=赤鳥居~香取神宮拝殿&本殿~ ①摂社・匝瑳神社(=経津主大神の御父母神)~旧参道~②末社・裂々神社(=経津主大神の祖父母神)~旧参道~③摂社・奥宮(=経津主大神の荒御魂)~若宮坂~④摂社・又見神社(=経津主大神の御子神)~若宮坂~雨乞い塚~下井坂~王子の坂~⑤末社・王子神社(=経津主大神の御子神)~赤鳥居=GOAL
【編集後記】
◆アース「カミキリ ホイホイ」
主だった杉古木に捲きつけてありました。
調べてみたら、害虫・スギカミキリを捕獲する粘着テープでした。
◆物部と藤原
~香取神宮と鹿島神宮、その祭神の変遷
記事本文を敷衍すれば、以下のような図式が成立します。
◇藤原「以前」
(=物部氏影響下の時代)
香島神宮=フツノミタマの大神(=石上神宮の祭神)
香取神宮=フツノミタマを斎き祀る物部一族の子女
→神格化=斎主の神(=伊波比主神)
◇藤原「以降」
鹿島神宮=武甕槌大神
香取神宮=経津主大神
◆巫女の神格化
今回のケースは、富士山本宮 浅間大社でも見ることができます。
元々、浅間(あさま)大神という男神を祀る巫女がいた。
その巫女が、神格化されて祭神となった。
その祭神が、木花開耶姫と同一視されるようになった。
こうしたケースは、ほかにもありそうです。(了)