千潮金刀比羅宮
(ちしお)
当社は、足立市場のための神社です。調べてみると、かなり数奇な運命をたどっていました。
◇鎮座地:東京都足立区千住橋戸町53-4
◇最寄駅:京成線・千住大橋駅~300m
◇御祭神:安徳天皇、倉稲魂命、大物主神
→出発は水天宮
1966年に稲荷神社を合祀
併せて「千潮金刀比羅宮」と改称
◇御朱印:なし
◇社格等:無格社で無人社
→本務社=南千住・素盞雄神社
◆「足立市場前」交差点
当社は、足立市場・場内に鎮座します。
足立市場は、青物市場として始まりました。
昭和17年 魚市場を加えて総合市場化。
昭和43年 青果部門が区内北部に移転。
以降、鮮魚部門のみとなっています。
◆由緒
無人社のため、由緒は確たるものがありません。
筆者なりに調べてみたところ、驚きの事実を発見しました。
千潮金刀比羅神社が橋戸稲荷の氏子などを相手に裁判を起こしていました。
→東京地裁 昭和43年(ワ)13913号判決
◎判決文の「争いのない事実」の項目に由緒的な文章がありました。
◆「争いのない事実」要約
明治時代、橋戸町内に水天宮が2社あった。
→1つは、現在地(=現・足立市場内)
・隣接地に「千潮稲荷神社」があった。
→もう1つは、橋戸稲荷境内地
・こちらの水天宮は、池の小さな祠。
・周囲は隅田川北岸の湿地帯。満潮時や降雨増水時は、池に祠が浮かび上がった。
・崇敬者は膝まで水に漬りながら参詣する有様で、浮島金刃比羅様の異名があった。
◆明治以降の沿革
・昭和41年、足立市場内の水天宮を隣接する千潮稲荷と合祠。千潮金刀比羅宮を設立。
・合祠の際、橋戸稲荷の氏子らによって、水天宮の本殿、拝殿は敷石まで含めて橋戸稲荷神社へと持ち去られた。市場内の跡地には、御神体と土地のみが残った。
・市場内の跡地に原告の総代(=能円坊氏)の手で社殿が再建された。
*能円坊氏とは、素戔雄神社の宮司家(←筆者調べ)
◆当社敷地
当社は、大部分が市場内に属するため、東京都から1年毎の土地使用許可を得ています。
本殿には、榊と酒。
市場関係者に崇敬されていることが分かります。
◆神輿庫
◆千潮稲荷神社
短い石段を上り、鳥居をくぐった左手です。神輿庫に並びます。
◆聡明な表情の狛狐
◆玉垣
当社の四周は、石柱をつないだ玉垣で守護しています。
各石柱には、青果と鮮魚の問屋衆の名が彫られています。
【御朱印】
ありません。
【参拝ルート】
2021年 3月23日
START=新交通ゆりかもめ・市場前駅~550m~①魚河岸水神社「豊洲遥拝所」~市場前駅→ゆりかもめ→豊洲駅~乗り換え~東京メトロ・豊洲駅→有楽町線→新富町駅~850m~②波除神社~100m~③魚河岸水神社「築地遥拝所」(閉鎖)~500m~東京メトロ・築地駅→日比谷線→南千住駅~550m~④素盞雄神社~250m~⑤南千住熊野神社~300m~⑥橋戸稲荷神社~350m~ ⑦足立市場(魚)・千潮金刀比羅宮 ~400m~⑧河原町稲荷神社~450m~⑨仲町氷川神社~550m~東京メトロ・北千住駅=GOAL
【編集後記】
◆江戸時代には存在しない?
安政年間(1855~1860年)の地図には、元宮である「水天宮」さえも存在しないようです。
当社の位置は、紫色=「御用地」の●付近。
斜め上に「金毘羅社」が確認できますが、当社とは無関係かと思われます。
※図は、安政年間(1855~1860年)の古図を復元したものです。
by復元古図「大江戸今昔めぐり」
→「切絵図」ではないため、見やすいのが特徴です。
◆千住大橋周辺の神社
橋の四隅を神社が守護する格好です。
◇南詰
a.東側:橋場日枝神社(山王社)
b.西側:南千住熊野神社
◇北詰
c.東側:千潮金刀比羅神社
d.西側:橋戸稲荷神社
・南詰2社=素盞雄神社の境外末社。
・北詰2社=素盞雄神社が本務社。
◆千潮金刀比羅宮の雰囲気
境内はていねいに清掃され、植栽は手入れされています。
手水は水道水が供給されています。
崇敬者によるお供えも新鮮でした。
つまり・・・
無人社ですが、まったく荒廃しておりません。
しかし・・・
清々しさなど、《ご神気》を感じることはありませんでした。
筆者の霊的受信力の低さのせいかもしれません。 (了)