船橋大神宮
別名:意冨比神社
2021年12月末、船橋大神宮に年末詣してきました。
『延喜式』にある意冨比(おおひ)神社にあたると言われています。
当社が意冨比神社に比定されるなら、1,000年以上の歴史を持つ古社となります。
社号は、文字を「1音=1字」で表記した時代の名残をとどめています。
◆二之鳥居
今日では、アマテラスを祀る、天祖・神明系の神社です。
※年末詣とは、冬至(12/21)の翌日以降に神社参拝することを指します。
◇鎮座地:千葉県船橋市宮本5-2-1
◇最寄駅
→表参道:京成線・大神宮下駅~170m
→西参道:JR総武線・船橋駅~1.0km
◇主祭神:天照皇大御神
◇御朱印:あり
今回は、JR・船橋駅から「西参道」に向かいました。
途中、神輿渡御の際に『御旅所』となる道祖神社に寄りました。
【船橋大神宮 御旅所】
船橋大神宮・境内社(飛び地)
道祖神社
◇鎮座地:千葉県船橋市本町4-38
◇御祭神:猿田彦大神
◇御朱印:なし
◆拝殿
手水舎の写真は割愛しますが、水はきちんと供給されています。
◆本殿
狭い神社であるにもかかわらず、拝殿の後ろには本殿が鎮座します。
道祖神社から船橋大神宮まで、550mほどです。
駅から大神宮まで1kmあります。ほぼ中間点に道祖神社があるので、こちらでワンクッション置くのが良いと思われます。
船橋大神宮
【表参道】
一之鳥居から拝殿まで約150mの参道が続きます。
【意冨比神社の創始】
①創始伝承
◇西暦110年
日本武尊が東征の折、海上の舟に鏡を発見。戦勝と降雨(日照りに苦しむ住民救済)を祈って神鏡を祀ったところ、神徳が顕現。その後も祭祀を営むようになりました。
②社号拝領
◇西暦123年
景行天皇から「意冨比神社」の称号を拝領。
③延喜式「神名帳」に記載
◇西暦972年
①・②は伝説にすぎませんが、③は公式記録です。
◎原初
「おほひ」は、大火あるいは大炊の意。
「おほひの神」は御食津神(みけつ)を意味するものであろう。おそらく、古墳時代に当地の人々が農業の守護神として祀ったのが起こりであろうと思われる。by『房総の古社』
【神明造】
当社では、主要な社殿を「神明造」で建てています。
そこで、今回は神明造に関連して
千木・鰹木に注目してみます。
※原則
男神:千木=外削、鰹木本数=奇数
女神:千木=内削、鰹木本数=偶数
◆神門
一般的参拝はこちらで。神門の下、数m先に拝殿が見えます。
◆神門の屋根装飾
千木=内削
鰹木=偶数(6本)
→女神の仕様は、祭神と整合します。
【祭神の変遷】
◆意冨比神から
天照大神へと代わったイキサツ
(1)意冨比神社
意冨比神社は式内社、すなわち、創始は972年(延喜式の誕生年)以前です。
したがって、神明宮より先に当地に鎮座していました。
祭神は意冨比神。
(2)伊勢神宮の神領となる
西暦1138年頃、船橋の夏見に御厨が置かれました。
御厨とは、伊勢神宮の荘園のことです。
(3)内宮の勧請
御厨に伊勢神宮・内宮を勧請。神明宮を創祀。
意冨比神社に遅れること170年以上です。
(4)意冨比神社への合祀
中世になると、御厨が衰退していきます。
それを機に、近隣の意冨比神社に神明宮を遷し、合祀。
→主祭神=意冨比神
合祀神=天照大神
(5)船橋神明宮
合祀後、神明宮の知名度がアップしていきます。
→祭神=天照皇大御神
意冨比神が祭神から消える
以来、意冨比神社は、船橋大神宮として天照皇大御神を祭神とし、今日に至っています。
◆拝殿
◆拝殿の屋根装飾
千木=内削
鰹木=偶数(8本)
→女神の仕様は祭神と整合します。
◆本殿
御祭神:天照皇大御神
昭和時代は相殿神2柱を合祀していました。
相殿神:天手力雄命&万幡秋津姫命
これは、『房総の古社』に書かれていました。
→同書が刊行された1975年時点の祭神です。後の45年間のどこかのタイミングでアマテラスのみとなった、ということになります。
*万幡秋津姫命=瓊瓊杵尊の母神
◆本殿の屋根装飾
千木=内削
鰹木=偶数(10本)
→女神の仕様は、祭神と整合します。
◆仮殿
元は、境内摂社「外宮」の社殿です。外宮を建て替えた際に、旧社殿をこちらに移転。仮殿として運用しています。
千木=内削
鰹木=偶数(6本)
当社は本殿の真裏に鎮座します。
この立地は、「奥宮」を感じさせます。
もしかしたら、 意冨比神を秘かに祀る社かも 、なんて連想も。
*当社の公式見解としては、もはや意冨比神を祀っておりません。
◆センター・ライン
①神門→②拝殿→③本殿→④仮殿が一直線上に並びます。
屋根装飾:千木=内削、鰹木=偶数
つまり、
①~④は、すべて女神祭祀の様式で統一されています。
【境内社1】
◆東エリア
当エリアから神明造の境内社をピックアップします。
①外宮(=豊受姫神社)
御祭神:豊受姫大神
本殿に祀られる天照皇大御神のお食事を司られる神さまです。
◆「外宮」の屋根装飾
千木=外削
鰹木=奇数(5本)
→男神仕様は、祭神と整合しません。
姫神を祀りながら男神の様式。
伊勢神宮・外宮の「謎の様式」を踏襲しています。
◎外宮は、《整合しない》のでなく、《整合させてない》 のだろうと思います。
◆式年遷宮
平成27年、伊勢神宮・式年遷宮後に、内宮「由貴御倉」の古材を譲与され造替されました。
*由貴とは、「清浄な・穢れのない」という意味の言葉です。
②天之御柱宮
御祭神:護国の英霊
◆天之御柱宮の屋根装飾
千木=外削
鰹木=奇数(5本)
→男神仕様は、祭神と整合します。
③神楽殿
神明造をイメージした建付です。
【境内社2】
神明造ではないけれど、千木と鰹木がある社殿を挙げます。
①大鳥神社
御祭神:日本武尊
千木=外削
鰹木=奇数(5本)
→男神仕様は、祭神と整合します。
②船玉神社
御祭神:天鳥船命、住吉命
千木=内削
鰹木=偶数(4本)
→女神仕様は、祭神と整合しません。
しかし、
当社は元々、船魂を祀っていました。
漁師たちは、神様が嫉妬するので船に女性を乗せなかったそうです。
つまり、船魂=女神
そう考えれば、仕様と祭神は整合します。
さらには・・・
まさかの・・・
徳川家好みの”金ピカ社殿”にも
千木&鰹木がありました。
③常磐神社
御祭神:日本武尊・徳川家康ほか
千木=外削
鰹木=偶数(2本)
→鰹木の本数が祭神と整合しません。
さらに、千木は屋根の中寄りにで、X(エックス)の形状で乗っています。
◎以上で、神明造に関係ある社殿をすべて見てきました。
【境内社3】
社殿と呼べる規模はなくても、特筆したいものを選びました。
①寄せ宮
安房神社、玉前神社、香取神宮、鹿島神宮が鎮座します。
房総三国の一之宮&常陸国の一之宮を一気にお詣りできるので、採り上げました。
②猿田彦神社
御祭神:猨田彦命
船玉神社の隣に鎮座しています。石碑とはいえ、丁寧に祀られており、いつも清浄です。
ちなみに、河内・住吉大社において、猿田彦大命は境内社=船玉神社の相殿神です。
【古墳】
この項目は、菱沼 勇『房総の古社』によります。
①円墳(高さ 7m)
別名=覆宮塚(おほひのみや)
当社の所蔵文書(1219年「神領寄進状」)によれば、当社の神域について「東限は覆宮塚、南は海、云々」
→鎌倉時代には、古墳の存在が記録されているということ。(筆者)
境内社=常磐神社の隣地。「周囲を削り取られ、頂上に灯明台が建てられている、大きな封土地がある。これが、恐らく覆宮塚であり、円墳だと思われる。」
②前方後円墳
直径30m、後円部の高さ 5m
「本殿の右手奥に清泉の湧き出る池があり、その向こうに前方後円墳を見つけた。頂上と麓に小祠が祀ってある。」
→今は、きちんとした木製社殿が建てられ、浅間神社となっています。(筆者)
◆被葬者
被葬者は、このあたりの農民から首長と仰がれた人であり、その没後、当社に祀られたと思われる。断定はしがたい。
当地では、被葬者の子孫たちが、先祖の霊を祀っていた。これが、意冨比神社の最初の姿ではないかと思うのである。
by『房総の古社』
→地域の首長を埋葬し、子孫が先祖霊として祀った。それが、のちに農業の守護神となり、「おほひ=大炊」→意冨比(おほひ)神社へと変遷していった、ということでしょうか。(筆者)
【西参道】
◆社号標
「延喜式内 意冨比大神宮 明治40年」と刻まれています。
◆西・二之鳥居
【御朱印】
初穂料は300円。今回、コロナ対応(=書置き)が解除されていました。
御朱印は、令和元年に新調。
《鏡》の中に、延喜式内 意冨比大神宮 下総船橋 と書かれています。
【参拝ルート】
2021年12月24日
START=JR船橋駅~400m~①道祖神社~550m~大神宮下交差点(=西参道・大鳥居)~②船橋大神宮~表参道・大鳥居~170m~京成線・大神宮下駅=GOAL
【編集後記】
◆祭神のこと
現在、当社の公式的な祭神は、天照皇大御神だけです。
しかし、歴史をふまえれば、意冨比神も祀ったほうが良いのでは?と考えます。(了)