冨塚鳥見神社 (とりみ)

 

《境内社に聖歓喜天を祀る神社》

 当社の特徴は、境内に祀られた『大聖歓喜天』(たいしょうかんぎてん)です。仏教施設ですが、興味深い存在です。

 

 

 ※印旛沼周辺は、神社の棲み分けが鮮明です。

沼の東北部に埴生神社、東南部に麻賀多神社、南西部に宗像神社、そして北西部に鳥見神社がそれぞれ集中的に分布します。

 

 

◆鳥見神社・一之鳥居

 祭神・ニギハヤヒが天下った場所が鳥見です。ニギハヤヒは、辺りを見渡し「虚空(そら)にみつ 日本(やまと)国」→「空に輝く日本の国」と賞賛しました。鳥見の里(=河内と大和の一帯)は、穏やかな自然と海や山の幸に恵まれた土地でした。

◇鎮座地:千葉県白井市冨塚694番地

◇最寄駅:新鎌ヶ谷駅からバスで15分

(東武線・北総線・新京成線)

◇御祭神:饒速日命、倉稲魂命、市杵島姫命、少彦名命

◇御朱印:不明(神事や例祭のときしか神職が来ない類の神社かと思われます。)

 

 

 

【表参道】

◆掃き清められた参道

 無人社にもかかわらず、参道は丁寧に掃き清められていました。凄いことです。

 

 

◆庚申塔

 参道左手には、庚申塔と青面金剛像が立ち並んでいます。

 

 

◆二之鳥居

 鳥見の里を治める一族の長は、長髄彦(ナガスネヒコ)。彼は、ニギハヤヒが伝えた稲作や織物、製鉄などの技術や人徳の高さを見て、ニギハヤヒに従いました。のちに、ニギハヤヒは長髄彦の妹、登美夜毘売(鳥見屋媛)と結婚。宇摩志摩遅命(ウマシマジノミコト)をもうけます。

 

 

◆手水舎

 鳥見の訓(よみ)は、「とりみ」or「とみ」があり、各神社で異なります。当社は、「とりみ」です。

清めの水は、水道栓から。

 

 

 

【社殿】

◆本殿

 主祭神がニギハヤヒということは、物部氏の傍流もしくは物部氏に関係ある氏族がこの地にやってきて、氏神として祀ったのが始まりだろうと推測できます。

 

 

 ニギハヤヒが主祭神の場合、ウマシマジ(=御子神)も祀られることが多いです。しかし、当社は倉稲魂命、市杵島姫命など「人気の神さま」が相殿神となっています。これは、思想・宗教史的な意味での、物部氏うんぬんは関係なく、地域住民から地元の神さまとして崇敬されてきた神社、ということなのでしょう。

 

 

 

 

◆彫刻

 神社彫刻には、さほど興味ないのですが、こちらは凄かった!

 

 

◆二十四孝

 社殿壁面にも精密な彫刻。題材は、『二十四孝』(にじゅうしこう)という書物から取っています。これは、中国において後世の範として、孝行が優れた人物24人を取り上げています。

 

 

 

 

 

 

【核心的施設】

◆歓喜天の社祠

 参道左手、引っ込んだ場所に覆い屋があります。 この中に、歓喜天の石像 がありました。歓喜天とは、「大聖歓喜自在天」の略で、仏教守護神の1つです。日本では、真言宗の一派として、富と性とくに豊作との関係で民衆に広く信仰されました。石像は、象頭人身です。

 

 

◆大聖歓喜天

 申し訳ございません。撮影した写真は外しました。

 

 「聖天さま」は、強大なパワーを持つ、と言われています。きちんと祈願すれば、大きな力を授かる。その逆は、負のパワーが・・・。と言われています。

 三諸の記事は、興味本位に過ぎ、聖天さまへの敬意を欠くことに気づきました。聖天さま、申し訳ございません。

 

また、尊像は秘仏となっている場合が多いようです。なので、撮影した写真は、畏れ多いので削除しました。

 

 

◆参考画像

 歓喜天には、「立川流」という流派があります。これは、性に関する部分が先鋭的です。「男女交合の淫欲成就の妙境の刹那こそが即身成仏の本体である」という思考が中枢にありました。つまり、男女交合し、絶頂に至ったとき成仏できる。と。(こちらの金属製立像は、ネットから拝借)

この流派に興味のある方は、「真言密教雑学」でググってみてください。ビックリですよ。

 

 

◆後醍醐天皇と歓喜天

 教科書に載る、有名な画像です。

奇怪な帽子を被り、法衣を着ています。しかも、両手に仏具。後醍醐天皇は、このいで立ちで、関東調伏の祈祷などを行いました。この画像、私たちがフツーに考える天皇のイメージから、かけ離れています。

後醍醐天皇は、歓喜天と関係が深いそうです。山崎正和と丸谷才一の対談による『日本史を読む』において、このことに触れています。

→「後醍醐天皇は、立川流にごく近い信仰によって、呪術的な王になろうと試みたのでした。~中略~ 彼はあまりにも知識人に過ぎ、外国かぶれに過ぎた。体系とかイデオロギーが好きであって、神道のような鷹揚な無体系、いわば無思想な仕組みでは満足できない人だったんです。」(by丸谷才一)

 

 

 

 

【境内点描】

◆神楽殿

 

 

◆狛犬

 

 

◆社務所

 屋根の形状がユニークでした。茅葺をイメージした、現代素材の屋根です。

 

 

◆切られ庚申

 「鮮魚道(なまみち)」に建っていた庚申塔を明治初期に当社へ移しました。

えぐられた部分の伝承→夜道、魚を運んでいた男が突如、火の玉に襲われました。パニくった男が刀を振り回した際、誤まって傷つけてしまった刀跡、とのこと。 by白井市教育委員会

*鮮魚道=利根川岸の布佐町から当地を経て、松戸市へと続いていた、鮮魚を運ぶ産業道路。

 

 

◆青面金剛像

 明和年間は、1764年から始まります。像の手は6本。

 

 

 

【境内社を3点】

①富士浅間神社

 本殿の裏手に鎮座。右手から正面にかけての一帯がそもそも小高くなっているため、塚の高さを感じません。しかし、左側は谷。谷側から見上げると、そこそこの高さを感じます。

 

 

◆火袋

 常夜燈の火袋の意匠は、左=日、右=月

 

 

 

 

②参道の小さな塚

 中央に御嶽神社、左右に三笠山神社、八海山神社、と刻まれていました。

 

 

③参道の石祠

 表参道に鎮座。きちんと祀られています。奥:駒形大明神、手前:不明。

 

 

 

【御朱印】

 冒頭に記したように不明です。

◆鳥見大明神

 一之鳥居の神額です。比較的新しいものですが、「ご朱印」の代わりとしてアップします。

 

 

 

【参拝ルート】

2020年 1月 9日

START=新京成線・新鎌ヶ谷駅~徒歩1分~千葉レインボーバス・新鎌ヶ谷バス停→白井工業団地行バス→ 西白井6バス停~徒歩300m~富塚 鳥見神社 ~徒歩~西白井6バス停→バス→新鎌ヶ谷駅=GOAL

 

 

 

【編集後記】

◆神仏習合

 当社は祭神から推して、物部系の神社と言えます。しかし、鎌倉時代~幕末まで長い時間をかけた仏教との一体化。また、地元農民との「ご利益」を核とした素朴なつながり。こうした歴史から、当社は神道的にピュアな神社ではありません。地方の小さな神社とは、このように民間信仰とも一体化した在り様を示す神社が少なくない。そう言えるのではないでしょうか。

 

 

◆廃仏毀釈

 明治政府は、国家近代化のために「神仏判然令」を出しました。神社と寺院を明確に分けよう、と。しかし、それは廃仏毀釈につながり、寺院や仏像が破壊されました。暴圧は、寺院にとどまらず、修験道や民間信仰にまで広がりました。例えば、出羽三山の全山神道化や富士講の禁止。これはもう、文化大革命と言えるのではないでしょうか。

 

 そうした流れの中、当社が神仏習合色を残すだけでなく、「歓喜天」まで破壊を免れているのは、この地域が地方の中の地方だったから。と、考えることができそうです。(了)