布川神社 (ふかわ)

 

 鎌倉時代・1243~1247年頃、この地に鎮座したようです。江戸時代は布川大明神と呼ばれていましたが、明治元年(1868年)に布川神社と改称しました。

◇鎮座地:茨城県北相馬郡利根町布川1779

◇最寄駅:JR成田線・布佐駅~1.8km

◇御祭神:久久能智之命(くくのちのみこと)

◇配祀神:水波能女命、久那斗神、市杵島姫命

◇御朱印:なし

 

 

 

【表参道】

◆鳥居

~鳥居の前は小さな広場になっています。右手には当地区の集会所。布川神社の入り口に、こうした施設を作ること。ここに、地域住民の神社への「思い」を感じます。

 布川町は、かつて利根川の水運を使い、銚子から江戸への物資の中継地として栄えました。 茨城県の南端にあたる地域ですが、律令制国では下総国の北辺です。

 

 

◆手水舎はありません

~水盤もなく、こちらは文化12年(1829)正月に奉納された水盤遺構です。

 

 

◆石段

~鳥居まで8段、鳥居の先から踊り場まで36段。ラストは、30段。総計=74段を昇ります。

 

~あと3段で頂上、という地点から拝殿を遠望。

 

 

 

【社殿】

◆拝殿

~祭神について。ククノチは「神産み」において、イザナギ・イザナミの間に産まれた神です。『古事記』では久久能智神、『日本書紀』では句句廼馳と表記します。

 

暖簾のような注連縄。鈴緒と天水桶は新しさを感じました。天水桶は1990年奉納でした。

 

 

◆扁額

~かすれきっていますが、「布川神社」と、右から書かれています。

 

 

◆拝殿内の絵馬

~こちらは「天の岩戸神話」でしょうか。天照大神にヒゲが描かれているように見えます。絵馬は、「アマテラス=男神説」に依拠したのかもしれません。 (拝殿扉の隙間から、flash・望遠撮影)

 

 

◆祭神=久久能智(ククノチ)

~この神様は、たんに木の神というだけでなく、大地の生命力を神格化しています。「クク」は、草木の茎や幹が立ち伸びるさま、「チ」は、男性的な霊を意味します。これは、男根の勃起を連想させ、たくましい生命力を表すもの、と言えるでしょう。このように、ククノチ神とは樹木を《大きくする霊力》を発揮する神さまなのです。

 

 

◆依代(よりしろ)としての樹木

~古来、神様が降臨する際、特別な石・木・水に降りるとされました。それを依代と呼びます。依り代だった樹木が神社のご神木につながります。「霊樹」として祀られるのは、杉・楠(くすのき)・欅(けやき)など、多様な樹種に及びます。これらの生命力を司るのも、ククノチ神です。

 

 

◆本殿

~屋根の造りが見かけないものです。正面と側面の三方に庇がついていて屋根を背面で切り落としたような形です。これは、日吉大社で見られる、「日吉造り」という建築様式みたいです。

 

◆迫力の彫刻

~拝殿彫刻に、さほどの興味はないのですが、こちらのそれはかなり精緻な彫りになっているのが分かります。

 

 

 

 

【境内点描】

◆社務所

~左隅に玄関。扉は施錠され、雨戸も締まっていて、人の気配はありませんでした。

 

 

◆神輿庫?

~正体不明の倉庫でした。手前の石像は、「とね七福神」のえびす様。

 

 

 

【境内社】

◆八坂神社

~石段の途中、踊り場から右に引っ込んだところに鎮座。八坂社ですので、祭神はスサノオかと思われます。かなり、さびれていますが、たんなる境内社ではないようです。

~八坂神社について補足。『利根町史』に布川神社の祭礼についての記述があります。時代によって様変わりしているものの、元々は「布川の祇園祭り」と称している、と。つまり、『利根町史』は、さびれた境内社「八坂神社」が布川神社の祭礼に関わっていることを示唆します。

 

 

◆舩玉宮

~石祠には「舩玉宮」と刻まれています。舩玉(=舩魂)は「ふなだま」と読みます。船橋大神宮の「船玉神社」と同じ祭神であれば、航行安全の神さまです。利根川の水運絡みでしょうか。

◇標柱は、当社が所有する絵馬のPR柱です。

 

 

◆石祠

~本殿の真裏に鎮座する石祠です。「正一位 布川大明神」と刻まれているので、この呼称から推察すれば、江戸時代に建てられたと言えるでしょう。

 

 

 

蛟蝄神社から布川神社への道

◆ケガの功名

~道に迷ってしまいましたが、そのお蔭で美しい景色を見ることができました。

 

 

◆広大な草地

~昔、車で走ったオホーツク沿岸の猿払(さるふつ)原野を思い出しました。

 

 

 

【御朱印】

無人社のため拝受できませんでした。

本務社も分からず、御朱印はないものと思われます。

 

 

 

【参拝ルート】2019.05.30

◆旧・下総國の北辺を歩く

START=JR成田線・布佐駅~大利根交通・布佐駅北口バス停→「利根ニュータウン東」行き(10分間乗車)→終点下車~2.5km~①『蛟蝄神社・門の宮』~800m~②『蛟蝄神社・奥宮』~徒歩4.0km~③柳田國男記念公苑~270m~ ④『布川神社』 ~1.8km~JR成田線・布佐駅=GOAL

 

 

 

【編集後記】

◆手水舎&水盤

~どこを探しても、手水舎はありませんでした。境内の雰囲気などは悪くなかったのですが、《参拝者を浄めるつもりがない神社》と言わざるをえません。◇昔は、農村でしたでしょうから五穀豊穣や降雨・祈雨などで神社が身近な環境だったでしょう。しかし、冒頭に記したように東京のベッドタウン化が進むと、こういう状況になるのは、仕方ないのかもしれません。

 

◆柳田國男記念公苑

~柳田の兄が婿養子に入った小川家。柳田が13歳の時、こちらで暮らしました。2年しか過ごしていませんが、この時期の経験が、”民俗学の巨星”への萌芽となりました。

 

◆國男少年の不思議体験

~屋敷には、小さな祠がありました。國男は、家人の留守を見計らい石祠の扉を開けました。中にあった玉の美しさに興奮して気が遠くなり、昼なのに空に数十の星が見えたそうです。その時、突然「ピーッ」と、ひよどりの鳴き声が響きました。その拍子に我に帰ったそうです。後年、「あの時、鳥が鳴かなかったら気が変になっていたかも知れない」と、振り返っています。

 

 

◆伝統芸能「つくまひ」

~布川神社では、かつて、例大祭の境内で尋橦(つく)の舞が催されていました。元禄の頃(1688~1703年)に始まりましたが、明治時代末に途絶えました。「つくまひ」は、カエルの面をつけ、弓を持った演じ手が、高さ15mくらいの柱に登って舞いを披露します。このとき、地上では、子どもが鶴・亀・猿・龍などの面をつけて舞います。「つくまひ」は、主として利根川下流域の各地に伝わっています。→ネットで動画を視聴しました。舞いというより、曲芸でした。

 

◆利根川

~利根川は、茨城と千葉の県境です。千葉の「布佐駅」を目指して、茨城の布川側から渡河しているところです。この川を下れば、香取神宮だなあ・・・、と感慨しつつ栄橋を渡りました。

 

 

◆風の歌を聴く

~今回は、旧・下総國の北辺に鎮座する神社を巡りました。

JR常磐線「取手駅」、JR成田線「布佐駅」、関東鉄道竜ケ崎線「竜ケ崎駅」、3者の中間地点のため、カントリー度がかなり高い地域でした。

草原を吹き抜ける薫風、利根の水面を走る川風。青空の下、気持ちの良い田園逍遥を楽しみつつの神社参拝をたのしむことができました。(了)