石上神宮 (いそのかみ)
正式名 石上坐布都御魂神社
(いそのかみにいます ふつのみたま)
《禁足地を望遠撮影》
当社は、日本最古社の1つです。拝殿の背後に禁足地を設け、石瑞垣を巡らせた神聖な空間での祭祀など、古代の姿を維持していました。しかし、大正時代に本殿が造営されてしまいました。
◇鎮座地:奈良県天理市布留町 384
◇最寄駅:天理駅~2.6km
→近鉄&JR万葉まほろば線
◇御祭神:布都御魂大神(ふつのみたま)
◇御祭神:布留御魂大神(ふるのみたま
◇御祭神:布都斯魂大神(ふつしみたま)
◇配祀神:五十瓊敷命、宇摩志麻治命、白河天皇、市川臣命
◇御朱印:通常版が2種類
◇社格等:延喜式=式内社、旧社格:官幣大社、「二十二社」
【表参道】
~石上神宮は、 物部氏の総氏神 として古代信仰の中でも異彩を放ち、(~中略~)百事成就の守護神として信仰されてきました。by 「ご由緒」
◆御祭神
石上大神とは、以下3柱の総称です。
①布都御魂大神:韴霊剣
→神武東征の際、偉功を立てられた天剣とその霊威。
②布留御魂大神:八握剣
→ニギハヤヒ「十種の宝」の起死回生の霊力。
③布都斯魂大神:十握剣
→素戔嗚尊が八岐大蛇を退治された天十握剣(あめのとつかの剣)の威霊。
◆石上神宮は・・・
《一貫して》物部氏の総氏神なのか
物部氏は石上神宮の氏神である(by由緒書)とのこと。物部氏の先祖は饒速日(ニギハヤヒ)だという伝承もあります。
となると、物部氏が、先祖・ニギハヤヒの「十種の神宝」だけを祀るなら分かります。しかし、石上神宮のフツノミタマを氏神として祀る必然性がありません。
物部氏と石上神宮の関係は、荒木田氏と伊勢神宮の関係に近いのかもしれません。内宮は皇室の氏神です。荒木田氏の氏神ではありません。荒木田氏は祭祀を司るだけです。
物部氏と石上神宮の関係は、氏子と氏神でなく、役割。
つまり、ヤマト王権内の職掌分担にすぎなかった、と考えられないでしょうか。
◆物部氏は石上神宮を祀っていたのか
石上神宮で神宝を管理していた五十瓊敷命(=皇族)。この御方が高齢を理由に引退。
《管理》を大中姫命に依頼します。
しかし、姫は拒否。
そこで、 物部氏に《治めさせた》
by日本書紀
ここに、重要なことが2つ見えます。
①神宝管理に皇族が関わっていたこと。
②管理とか治めるという言葉は出てきます。
しかし、祀るという言葉が出てこないこと。
石上神宮でフルノミタマを祀っていたのは、和珥(わに)氏系の市川氏や布留氏でした。
そこへ、 物部氏がやって来ました。
物部氏は何のために来たのか。
それは、 神宝を管理するため だったのです。
◆参集殿
◆参道路肩
参道両サイドは土手状になっていて、社叢が美しい佇まいを見せてくれます。明治神宮参道は、この作り方を参考にしたかもしれません。
◆祓所(はらえど)
真っ白い砂利が敷かれ、樹木が1本(たいてい榊)植えられています。祓は、禊や斎戒の後に行われる、浄化の儀式です。祓は、神を迎えるための準備として、穢れのない清浄空間を作りあげることです。
しかし、そんなことはニワトリに通用しません。
◆手水
手水舎はありません。布留山から引いたと思しき、清らかな水が勢いよく出ています。
天然石の水盤は、1か所くり抜かれていて、そこに栓が挿入されている独特なものです。
水盤には 「布留社」 と刻まれていました。
◆配祀神
宇摩志麻治命(うましまじのみこと)は、 饒速日命(にぎはやひのみこと) の子です。『古事記』によれば、熊野において神武天皇に帰服し。以後、自らの部族である物部を率いて皇城守護の任に当たりました。また、『旧事本紀』によれば、神武天皇即位の後、饒速日命の遺した《十種の神宝》を天皇に献上し、天皇と皇后の魂を鎮める呪術を行ったとされています。
【楼門】
◆西回廊
饒速日命 について。
ニギハヤヒ(=物部氏の祖先)は、天から河内に降臨し、ヤマトに移動。
一方、ニニギ(=天孫)は、高天原から南九州に天下ったのちに、ヤマトへ。
これは、国家が編んだ「日本書紀」の記述です。ニギハヤヒとは、皇室より先にヤマトに君臨した王、と天武朝も認めていた、ということになります。
◆楼門
楼門は、1318年に建立されました。高さ10m・2階建て。江戸時代まで、上層に鐘が吊られていたので、「鐘楼門」と呼ばれていました。鐘は神仏分離令によって撤去されました。
【霊剣=フツノミタマ】
この剣は、神話で2度活躍します。
◆1度め:国譲り神話
フツヌシとタケミカヅチが交渉の場に持って行ったのがこの剣です。
◆2度目:神武東征神話
神武軍が熊野で大ピンチに陥った際、その窮地を救うためアマテラスがこの剣を高天原から投下します。結果、神武たちは熊野を平定できました。
【拝殿】
1081年、白河天皇から皇居の神嘉殿(しんかでん)を拝領し、拝殿としました。また、「王権の武器庫」とも称されています。
◆王権の武器庫
古代人は、技術(=テクニック)と呪術(=マジック)を区別せず、同じものと考えていました。武力を行使するためには、裏付けとなる神の力が必要と考えていたのです。
よって、軍が遠征する場合、武器だけでなく、フツノミタマの分霊も持っていきました。
蝦夷征服も同じ論理です。
鹿島や香取にフツノミタマが祀られたのは、蝦夷を祈り倒すためでもあったのです。
◆たんなる武器庫ではなかった
「敵」を物理的に倒すこと、精神的に倒すことが一体だった、と書きました。ということは、ひとたび敵方を征服したら、その武器だけでなく、神宝も取り上げてしまうことが防衛上、重要になります。
その意味で、 石上神宮は、敵から奪った神宝を保管する倉庫でもあったのです。
◆国魂を押さえる
降伏した豪族には神宝を差し出させ、それを1か所に集めて収納する。
これは、天皇が日本中の国魂を押さえる、という意味です。
武力的な政策と併せて、こうした呪術的な行為が必要だと考えられていたのでした。それが石上の神庫なのです。 by『神社の古代史』岡田精司
【禁足地】
拝殿の裏手が禁足地で、最も神聖な場所です。
一部ですが、実際にこの目で遠望しました。その神々しさには、身が引き締まりました。
◆左:神庫、右:拝殿
禁足地には、土を盛ったところがあって、そこが信仰の対象になっていました。
その 土盛りの下に、ご神体の刀剣が埋められている という伝承がありました。
◆禁足地の発掘
明治維新で神職の世襲が禁止されます。新たに、幕末志士や国学者を神職にしました。
石上神宮の宮司には学者が就任。 新宮司は、禁足地の発掘を申請~許可を得ました。
◆剣先状の石瑞垣
ー鳥肌が立つほどの聖性ー
出土品の中に、鉄刀が1本ありました。「フツノミタマ」あるいは「フルノミタマ」と呼ばれた霊剣であろう、と丁重に祀られました。
発掘地を埋め戻したのち、学者宮司は何をしたか・・・。
あろうことか、そこに本殿を造営してしまいました。 *尖状瑞垣の手前が禁足地です。
【物部氏と大物主神】
宮中では、激しい雷のとき、皇居に落雷しないよう、弓の弦を鳴らす「雷鳴陣」を行います。
これは、物部氏の秘術「鳴弦」を模したものです。
鳴弦とは、物部氏が三輪山の大物主神を召喚する際に用いる秘術です。
つまり、
物部氏は大物主神を自在に扱うことができた
ということです。
【境内社】
◆社叢
参拝を終え、楼門を出ると眼前に広がる風景です。石段を上れば境内社エリアです。
◆石垣
石垣上の境内地エリアに立つと、本宮の楼門や拝殿を見下ろす形なので、ビックリでした。
◆摂社拝殿
国宝指定です。中央に通路が設けられているため「割拝殿」(わりはいでん)と呼びます。
1137年に内山永久寺にて造営されました。そして、大正3年、出雲建雄神社(いずもたけお)の拝殿として移設されました。
◆出雲建雄神社
御祭神:出雲建雄神
鎮座は、天武天皇の時代です。出雲建雄神とは、熱田神宮に祀られている三種の神器のひとつ。草薙剣の荒魂です。
◆荒魂
草薙の剣を祀る神社が、最も高い場所に鎮座している。
これは、何を意味するのでしょう。
《石上神宮=神剣・布都御魂大神》 VS 《出雲建雄神社=神剣・草薙剣》ということです。
「三種の神器のほうが上位です」と、石上神宮が皇室を忖度(そんたく)したのでしょうか。
◆猿田彦神社
御祭神:猿田彦大神、住吉大神、高靇神
小さいですが、瑞垣もありますし、屋根は檜皮葺。ていねいに造られています。
◆七座社(しちざ社)=北向きです。
御祭神
①生産霊神(いくむすびの神)
②足産霊神(たるむすびの神)
③魂留産霊神(たまつめむすびの神)
④大宮能売神(おおみやのめの神)
⑤御膳都神(みけつかみ)
⑥辞代主神(ことしろぬしの神)
⑦大直日神(おおなおひの神)。
→①から⑥は《宮中八神殿》の神々です。
①②③と⑤=天皇の鎮魂行事に関係する神々。④=宮殿を人格化した女神。⑥=天皇・侍従の神格化。⑦=穢れを祓って禍を直す神。
◆天神社(てんじん社)=西向きです。
御祭神:高皇産霊神、神皇産霊神
宮中・八神殿で祀られる神であり、《造化三神》のうちの2神です。菅原氏は無関係です。
「七座社」と「天神社」の2社を合わせると、宮中八神と祓神を祀っていることが分かります。宮中八神とは、鎮魂祭の対象になる神々で、天皇の魂を鎮めるための大事な神々です。
【境内点描】
石上神宮の境内は、大神神社と同じく「山辺の道」が横切っています。
◆神杉
万葉の時代より「石上布留の神杉」(いそのかみふるのかみすぎ)と詠われ、現在も神杉として、信仰の対象となっています。
◆鏡池
画面左手方向は、大神神社方面に向かう「山辺の道」につながります。
【御朱印】
左:国宝・七支刀を象ったハンコに御朱印
右:通常タイプ
【参拝ルート】
2019年 3月19日
◆「山辺の道」の古社を歩く
START:JR万葉まほろば線「三輪駅」~徒歩~①志貴御県坐神社~②成願稲荷神社~③大神神社摂社・神坐日向神社~④摂社・神宝神社~⑤末社・天皇社~大神神社二之鳥居~⑥末社・祓戸神社~⑦末社・御炊社~⑧大神神社~⑨摂社・磐座神社~⑩末社・市杵島姫神社~摂社・狭井神社~⑪末社・貴船神社~⑫摂社・檜原神社~JR万葉まほろば線「巻向駅」→JR万葉まほろば線→「天理駅」→TAXI~ ⑬石上神宮 ~つづく
【編集後記】
◆国宝・七支刀
禁足地の神庫で発見されました。この剣がどういう経緯で百済から伝わったのかは定かでありません。当時の百済が日本をどのよう考えていたかは別として、少なくとも、ヤマト王権の主観では百済=属国でした。
となれば、 属国の神宝(=国魂)ですから、当たり前に石上神宮に収納です。間違っても、正倉院には納めません。
◆神庫の終幕
天武天皇の時代、奪い取った《神宝が地方豪族に返還》されました。中央集権がほぼ完成し、豪族の脅威がなくなったためです。彼らに祈り倒される心配がなくなったということです。
◆国家的性格の変貌
石上神宮の国家的性格は平安時代まで続いたようです。以降は、古代国家の変質とともに大きく変わり、神社名も「石上布留御魂神社」へと変わりました。国家的神社から物部氏・子孫の氏神へと変わっていくのです。明治維新で、社名は再び「石上神宮」となりました。
◆本殿
石上神宮が大正時代、本殿造営を申請し許可されました。で、禁足地に本殿が造営されたことは既述しました。実は、同時期に大神神社も同様な申請を出しました。しかし、許可が下りませんでした。この名裁定のおかげで、大神神社は、古い祭祀の姿を残せています。 (了)