飯綱神社 (いいづな)

 

《元は飯綱大権現。お寺でした》

 今回は、白狐と縁が深い当社。あわせて、時平神社もご紹介します。

◇鎮座地:千葉県八千代市萱田476

◇最寄駅:東葉高速線・八千代中央駅~1.2km

◇御祭神:宇迦御魂命

◇御朱印:なし

 

 

 

【表参道】

◆社号標と石段

 石段は58段と短いです。しかし、急角度による緊張のため、長く感じられました。

 

 

◆手水舎

 無人社という情報を入手していたので、水が気がかりでした。

 しかし、それは杞憂でした。水はとめどなく流れ出ていました。

 

 

◆表参道鳥居(2022年夏 写真追加)

 

 

 

【創建伝承】

 1479年、太田道灌が米本城攻略に当り、この丘に砦を築きました。その際、戦勝祈願のため十一面観世音を祀りました。城を落とし、村上家を滅ぼして、江戸に帰る際、本尊を土に埋めました。

→(参考)村上家の家臣700名が自刃した場所に「七百余所神社」が造られました。当社の近くです。

 

 

◆白狐

 道灌が去って140余年、当地に、白狐が夜ごと現れては、鳴き続けました。村人が話を聞くと・・・

 

「我は飯綱権現である。山に観音像が埋まっている。それを祀れば人々を救済する。」と。

 

村人らは像を掘り出し、お堂を建てて安置しました。これが、飯綱神社の始まりです。

 

 

 

 

◆見晴らし

 とても良い見晴らしです。村上氏との戦では当地に砦を築いた太田道灌。下界の戦況が手に取るように分かったことでしょう。

 

 

 

【本殿】

◆飯綱大権現

 権現のとは、「権大納言」や「権禰宜」などと同じく「臨時の~」or「仮の~」という意味。本来は仏ですが、「仮に」神として「れた」ことを示します。

 権現は、仏教が隆盛を極めたときの『本地垂迹』という考え方に出てくる用語です。

 本地垂迹説によれば、皇祖神=天照大御神でさえ、元の姿は大日如来だとされました。寺院は、明治維新によって位置づけが大きく変わり、場合によっては破壊の対象になりました。

 

 

 

 

◆瑞垣

 精細な彫刻が施されていました。塗装は劣化が進んでいました。塗られたばかりの姿は、秀麗だったと想像できます。

 この彫刻は、中国(=元の時代)の故事『二十四孝』を描いています。24人の孝行息子の話を集めたもので、当時の儒教的な価値観が色濃く反映されているようです。

『二十四孝』とは、例えば、貧しくて蚊帳がなく、親を蚊から守るため息子が裸となって一身に血を吸わせた話。病母にタケノコを食べさせたい、と冬山に入った息子の話などがあります。

 

 

 

【飯綱権現】いいづな

◆飯綱権現から飯綱神社へ

 当社が神社として再出発することになった際、祭神には宇迦御魂命を選びました。

お稲荷さんで祀られている、五穀豊穣の神さまです。

 

八百万の神さまから、宇迦御魂命を選んだのはなぜか・・・。下図をご覧ください。

 

 

◆飯綱権現とは

 長野県の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神です。

多くは、剣と索を持ち、白狐に乗った烏天狗形で表されます。一般に、戦神として知られ、上杉謙信や武田信玄なども信仰していました。

 

 また、飯縄権現が授ける「飯縄法」は「ダキニ天法」と並んで邪法扱いでした。天狗や狐などを使役する外法とされつつ、世俗信仰へと浸透していきました。

 

 一方、こうした俗信から離れ、現在でも東京・高尾山薬王院、千葉県いすみ市・飯縄寺、栃木県・日光山輪王寺など、関東各地の《寺院で》信仰されています。

 

 

 

【境内】

◆鼓楼

 建造は、1814年。当社がかつて寺院だったことをこの鐘楼が証明しています。形状は、正面が三間(3.75m)、側面が二間(2.9m)の長方形です。数値以上に大きく見えました。

造りは、二層構造で、下層階は裾が広い「袴腰鐘楼」です。

 

 

◆神木

 樹齢450年超の公孫樹(いちょう)です。

 

 

 

【境内社】

◆仙元宮

祭神:木花開耶媛命

 祠には、仙元宮との文字。浅間神社の読み「せんげん」に当て字したのでしょう。

 

 

◆仏教的施設

 本殿裏手のスペースには、お堂、地蔵などが並びます。墓石のようなものまであります。

 

 

◆裏参道鳥居

 こちらは、近年になって建てられたような感じです。

 

 

◆西参道

 

 

◆裏参道(2022年・夏 写真追加)

 石段がなく、緩やかな坂道。車も入っていけます。女坂的位置づけでしょうか。

 

 

◆庚申塔

 丘の北側麓には、庚申塔が並んでいました。

 

 

【八千代 飯綱権現】

 中世後期、飯綱権現は”魔力に富んだ”武運長久の神として武家から信仰されました。江戸時代以降、現世利益をはじめとして大衆化が進んだ結果、本質が分かりにくくなったまま、時が経過しました。
 

 大きく変わったのは、明治の「神仏分離」以降です。結果、関東や長野県での飯綱信仰の寺院は衰退していきました。しかし、高尾山薬王院などの寺院、「相模の飯綱さま」と呼ばれる座間神社、そして八千代市萱田の飯綱神社。これらは、現代に適応して生き延びています。
 その中でも、八千代の飯綱神社は、神仏習合を色濃く残した神社として健在です。飯綱権現という特異な祭神とそれにまつわる謂れや建造物を維持している稀有な存在は、広く関東圏の中でも貴重な存在(=文化財)ではないでしょうか。

 

 

 

 【大和田 時平神社】 

 順番が前後しましたが、『飯綱神社』より先に当社を訪れました。

正式な社号は「時平神社」です。

 

 

◆鳥居

 この日は、例祭日でした。と言っても、神職が祝詞をあげるだけだそうです。神主の到着前、氏子さんが境内を清掃していました。

 

 

◆七年祭

 当社は、小さいながらも『下総三山(みやま)七年祭』に参加しています。この祭りは、数えの7年目ごとの丑年と未年に行われていて、船橋市、八千代市、千葉市、習志野市にまたがる壮大な祭りです。

 

 ※七年祭における各神社の役割 

【父】二宮神社=船橋市

【母】子安神社=千葉市

【子守】子守神社=千葉市

【産婆】三代王神社=千葉市

【叔父】菊田神社=習志野市

【叔母】大原大宮神社=習志野市

【長男】時平神社=八千代市

【娘】高津比咩神社=八千代

【末息子】八王子神社=船橋市

以上9社です。

 

 

◆参道

 奥行きが短い参道に、狛犬や常夜灯が近距離で立ち並びます。

 

 

◆本殿

御祭神:藤原時平

 醍醐天皇のとき、時平と菅原道真が左右の大臣に並びました。のちに、両者は対立。時平は、フェイク・ニュースを使って道真を大宰府へ追放しました。しかし、時平は政権を掌握したのも束の間、39歳の若さで死去。死因は、道真の祟りと信じられました。

 

 

◆本殿彫刻

 あまりに精緻でしたので、取り上げます。

 

 

 

 

 

【飯綱神社への道】

◆庚申塔群

 時平神社から当社までの道は、市街地を出発して次第に緑が濃くなっていきます。

 

 

◆鳥居と地蔵

 神道と仏教。神仏習合な風景でした。

 

 

◆田園

 時平神社から飯綱神社まで、2km以上ありました。しかし、このように美しい田園風景を目にすることができるため、距離を忘れられます。

 

 

 

【御朱印】

 飯綱神社、時平神社、ともにありません。

 

 

 

【参拝ルート】

2018年10月 9日

STARAT東葉高速線(東京メトロ東西線)・ 千代中央駅~1.3km~大和田 時平神社~2.3km~②飯綱神社 ~1.1km~③七百餘所神社~30m~東洋バス「宮内」バス停→バス7分(=1.1km)→東葉高速線・八千代中央駅GOAL

 

 

 

【編集後記】

◆神仏習合

 八千代市では、これまで幾つかの神社を訪れました。伝統神楽や無病息災を願う神事などを残す神社も少なくありません。駅から遠く離れ、昔ながらの農村の面影を残す地域では、神・仏がいっしょくたにされて、等しく愛され親しまれる。そういう姿を見ることができます。(了)