本日は、 8月15日
当然、『靖國神社』です。
※本記事は、2018年記事を再編集し、更新しました。
靖國神社
当社は、日本人として生まれたら、1度は行っておきたい神社の1つです。
今回は、なじみの少ない 『招魂斎庭 』 と 『霊璽簿奉安殿』 。また、私たち一般人には《禁足地 》となっている 『元宮』と『鎮霊社』 などを望遠撮影しました。
◇鎮座地:東京都千代田区九段北3-1-1
◇最寄駅:東京メトロ東西線・九段下「1番出口」~150m
◇御祭神:国のために尊い一命を捧げた方々=246万6千余柱
◇御朱印:あり
◇靖国神社 広報課◇
戦争で亡くなられた方は、家族のため、郷土のため、国家を守るため、その尊い命を捧げました。しかも、残された家族や日本の将来を案じられた英霊の強い思いが、現在も目に見えない形で私たちをお守りくださっています。私どもは、そのような英霊に感謝し、心から畏敬の念を持ち「護国の神」としてお祀りしています。
→おっしゃること
理解しております。(筆者)
【表参道】
~靖國神社は、元・江戸城の外堀と内堀の間に社地があり、その広さは、9万9千平方メートル。境内の南は内堀を経て、武道館、北の丸公園、そして皇居へと続きます。
◆大鳥居
1974年に剛板で再建されました。高さ=25m、笠木=34m、重さ=100トン、耐用年数1200年。
拝殿まで、430mの参道が続きます。 (注)2019年に化粧直しされたようです。
◆社号標
石柱上部が不自然に寸詰まりです。元々は「別格官幣」と刻まれた部分がありました。
ところが、昭和20年にGHQが旧社格の使用を禁じました。多くの神社が社格の彫りを埋める中、靖國神社は、当該部分の切除を断行しました。よって、このような社号標になりました。
◆大燈籠
高さ13mの花崗岩製。社殿に向かって左側に陸軍、右側に海軍。基壇部分には、各7作のレリーフが埋め込まれています。
◆レリーフ
『救護 日本赤十字社救護看護婦の活動』
(参考)
『婦人従軍歌』歌詞
【4番】真白に細き手をのべて 流るる血潮洗い去り 巻くや繃帯(ほうたい)白妙(しろたえ)の 衣(ころも)の袖は朱(あけ)に染み
【5番】味方の兵の上のみか 言(こと)も通わぬ敵(あだ)までも いと懇(ねんごろ)に看護する 心の色は赤十字
◆青銅鳥居(=二之鳥居)
明治28年に完成。青銅鳥居としては、日本一の大きさです。参道では「みたま まつり」の準備が進行中でした。「まつり」期間は、約3万個の大小提灯が掲げられ、境内は献灯(みあかし)による黄金色の光に包まれます。
◆手水盤
こちらの水盤は、2代目です。創建時のそれは、参集殿内の廊下に移転保存されています。
◆神門 開門前(午前05時50分)
扉が閉じた状態の神門は、厳かです。
◆朝陽に輝く菊の御紋
鳥居の笠木と貫の間から差し込む陽光。 菊の御紋が照らし出されています。
◆神門 開門後(午前06時)です
開門時間は、夏冬問わず午前 6時。 扉の高さ=6m、御紋章の直径=1.5m
◆中門鳥居
拝殿の手前に立つ鳥居です。かつては、扉付きの門だったため、この名がついています。秩父・三峯神社から提供された、樹齢約500年のヒノキを用いています。
【社殿】
筆者が参拝した6月29日は、当社「創立記念日」でした。
靖國神社にとって、特別な日は拝殿に紫色の紋幕を張ります。
◆拝殿正面(午前07時08分)
開門から1時間経過していますが、まだ通常の白色紋幕です。
◆緊張
拝殿前に立つと、他の神社では感じることのない緊張が走ります。
境内散策ののち、再び拝殿前に戻ってきました。
◆拝殿正面(午前08時20分)
紋幕は、紫色のそれへと張り替えられていました。
◆桜花の装飾
国旗掲揚ポールを囲う鉄柵に取り付けられたレリーフです。
◆回廊
回廊に造られた重厚な御門。こちらの回廊は、拝殿と本殿をつないでいます。
◆本殿を遠望
本殿斎庭は、丁寧に整えられていました。
【政教分離 】
靖國神社には、いわゆるA級戦犯が合祀されています。
「市民」(=左翼活動家)は、戦犯を排除せよ、と声高に主張します。
政府がそうした声に負けて、「A級戦犯」分祀の動きを見せたとしたら・・・。
これは、国家による宗教への関与となります。
すなわち、憲法の『政教分離の原則』に抵触します。
よって、憲法遵守という視点でも
「A級戦犯」の御霊を分祠してはいけない、という見方ができそうです。
「市民」は、この件について「護憲」の立場を取らないという、ご都合主義です。
【約束】
「戦地で不運にも命を落としたら、国が責任をもって御霊をお祀りする。」
時の政府は、そう約束して国民を戦場へ送りました。
したがって、「戦犯」だろうがなんだろうが、国民との約束を永久にたがえてはいけないのです。
◆霊璽簿奉安殿
(れいじぼほうあんでん)
本殿奥の浄域に建てられています。こちらには、246万 6千余柱の御祭神名を浄書した和紙を綴った「霊璽簿」が約2,000冊納められています。
建屋は、鉄筋コンクリート造、銅板葺、耐震、耐火、防湿、など万全の設計がなされています。
【慰霊のための施設】
◆招魂斎庭
(しょうこんゆにわ)
英霊を本殿に合祀する前夜、神霊をお迎えするための『招魂式』を執り行いました。
招魂斎庭は、この式典を斎行するための聖域でした。
現在の所在地は、境内地の北東。「到着殿」の向かい側です。
招魂式は、700坪の斎庭の中央に、タテ三間、ヨコ四間(=5.5m×7.3m)の 《浄域》 を造り、そこに黒木(=皮つき材木)造りの仮殿を設けて斎行されました。
招き入れた神霊は、「御羽車(おはぐるま)」という神輿に乗せ、本殿へと運びました。
今は、浄域のみを保存して「招魂斎庭」としています。
上記を予習した上で、足を運びました。厳粛な気持ちで拝観させていただきました。
*玉垣&衝立の前まで進むことができます。
【その他の慰霊施設】
◆慰霊の泉
ー戦没者に水を捧げる母の像ー
故郷の母を想い、水を求めながら息を引き取られた方々が少なくありません。このオブジェは、「清らかな水を捧げる、慈愛に溢れる母を表現したもの」とのことです。
◆軍犬慰霊像と戦没馬慰霊像
戦地で命を落とした犬や馬を慰霊しています。
戦地に送られた犬は1万匹、馬は20万頭。
日本に生還できた犬・馬は1頭もおりません。
【禁足地】
境内には、①鎮霊社と②元宮が鎮座する神域があります。
一般人は、入ることができません。
*写真はすべて望遠です。
①鎮霊社
1853年黒船来航以降の戦争・動乱により亡くなっても、ご本殿に祀られていない日本人と外国人の霊を一括し、こちらで鎮め祀っています。
鬱蒼としていて見えにくいのですが、石燈籠と神籬(ひもろぎ)らしきものが見えます。
~ 霊を招くには、結界して神霊が降りてきやすい聖域を造ります。それが、神籬(ひもろぎ)です。神籬と神霊の関係=アンテナと電波の関係。そんなイメージかと思います。
◆「鎮霊社」本殿
②元宮
◆斎庭(ゆにわ)
文久二年(1862年)、幕末の動乱で没した志士らの霊を祀る祭儀が、京都東山の霊山で行われました。
◆「元宮」本殿
翌、文久三年(1863年)には、祇園社(現・八坂神社)境内に祠が建てられ、志士を慰霊する「招魂祭」が斎行されました。さらに、明治元年(1868年)、政府は京都の霊山に「招魂社」を設け、戊辰戦争における官軍側の戦没者の霊を祀りました。これが、靖国神社のルーツです。
【境内点描】
①大村益次郎銅像
靖国神社の創建に尽力したことを顕彰して建てられました。この像は、江戸城・富士見櫓から北東を凝視、すなわち上野山に立て籠もる、幕府・彰義隊を睨む姿です。左手には、双眼鏡を持っています。像の高さは12m。
②斎館
建物の近くは、厳粛な雰囲気でした。
③能楽堂
こちらでは、毎春「夜桜能」が上演されます。また、『みたま まつり』では、琉球舞踊や津軽三味線が奉納上演されます。
④石鳥居の狛犬
石製大鳥居の両脇を固めています。後ろ姿がユーモラスな狛犬、視線の先は皇居です。
⑤神池庭園
池には滝が造成され、園内3ヶ所に茶室が点在します。関東大震災の折には、この池から水をひいて、鎮火活動をしたそうです。
【御朱印】
◆左:2018年 6月
◆右:2017年 4月「桜の開花宣言」当日
【編集後記】
◆実在した人物を祀ること
東照宮(=徳川家康)、乃木神社(=陸軍・乃木希典)、東郷神社(=海軍・東郷平八郎)、松陰神社(=尊攘志士・吉田松陰)など、近世以降に《偉人顕彰系神社》が建てられました。靖国神社は、この種の神社とは一線を画しています。
御祭神は「偉人」ではないかもしれません。しかし、愛する国・愛する人を守るために尊い生命を捧げており、今なお、目に見えない形で私たちをお守りくださっています。
◆みたままつり
このお祭りは、「戦争と結びつく靖國」というイメージを変えるため、平和の祭典として始まりました。7月13日~16日には、夜店が並び、芸能の奉納や盆踊りが行われる「夏祭り」です。
その一方、みたままつりの期間中、本殿では英霊を慰める祭儀が粛々と営まれています。「まつり」来場者のほとんどは、それを知りませんし、関心もないのが現実です。 (了)