下谷三島神社 (したや)
別名:金杉三島神社
2017年 6月以来 5年ぶりの参拝です。
※前回記事の写真を差し替えて、上書きしました。
《受験生の守護神=「落ちない」神社》
当社は、大山祇命を主祭神に、雷神や龍神などを相殿とする神社です。
「落ちない」とは、雷神にまつわる伝承に由来する評判です。
◇鎮座地:東京都台東区下谷3-7-5
◇最寄駅:入谷駅~500m
(東京メトロ日比谷線)
◇御祭神:大山祇命
◇相殿神:和足彦命・身島姫命、上津姫命(雷神)、下津姫命(龍神)
◇御朱印:あり
【重要確認】
◆当社の本社はどこなのか
社号:三島、社紋:角切三
上記2点から、当たり前に、伊豆國・一之宮『 三島大社』を連想します。
しかし、三島大社からの勧請ではありません。
当社は、伊予国・一之宮『大山祇神社』の三島大明神を勧請しています。
【表参道】
◆外観
この1枚は、2017年 6月撮影。
◆大鳥居
◆手水舎
参道左手に瀟洒な手水舎
◆生花が添えられた水盤
龍の傍らに清楚な花。参拝者への心遣いを感じます。
◆手水舎から拝殿を遠望
【社殿】
◆拝殿
◆由緒
鎌倉時代、幕府御家人・河野通有(みちあり)が伊予国(愛媛県)『大山祇神社』の三島大明神を武蔵国豊島郡 金杉村(現・台東区根岸)の地に勧請、と伝わっています。
◆坂東の武将が西国の神社を勧請した理由
河野通有は元寇の際、幕府執権・北条氏から出撃命令を受けました。博多へ向かう途中、瀬戸内海・大三島の大山祇神社にて戦勝を祈願しました。
その縁で、東国へ帰投の際、お告げがあって三島大明神(大山祇神の別名)を武蔵・忍ケ丘(=上野)にお迎えしたそうです。上野には、居館がありました。
では、なぜ伊予・大山祇神社でなければならなかったのか。
武蔵國に住むなら、スサノオを祀る神社ではダメなの?ってことです。
これは、河野氏が伊予を本貫とし、瀬戸内海を支配する水軍の武将だからです。そのため、大三島の大山祇神社に祈りました。
ちなみに、先祖は「神別」の古代氏族・越智氏。この筋は、物部氏につながります。
◆伊予・大山祇神社のこと
山の神、海の神、そして戦の神として、多くの武将から崇敬され、武具が奉納されました。国宝・重要文化財の指定を受けた甲冑の約4割がこの神社に集まっています。
頼朝や義経が奉納した甲冑は国宝。また、木曽義仲の甲冑は重文です。
by公式HP
社号について。古代には、大山積神社の名で記録に現れます。しかし、一般的には、大三島大明神や三島社と呼ばれました。明治時代、社名を大山祇神社と定めました。
by公式ウイキ
◆繰り返された遷座
当初、河野氏の館があった上野に勧請~鎮座。
数百年後、江戸幕府の命令により、上野→金杉→浅草と移転。最終的に当地(=金杉)に落ち着いたようです。
河野氏は先に書いたように、本貫は伊予國です。おそらく、本宅はそちらにあったのだろうと思います。とはいえ、幕府の御家人。有事の際、「いざ!鎌倉!」が使命です。したがって、武蔵國に住まいがあったとしても、不思議ではありません。
◆ご神木
伊予・大山祇神社の境内から移植した、と伝わるクスノキ。
あちらには、河野通有が兜を架けたクスノキの枯れ木が残されています。
◆本殿
木材の経年劣化がいい味を出しています。彫刻の類はありません。
◆本殿・拝殿
社殿は、奥から順に本殿(平入り)→幣殿→拝殿(平入り)→向拝(妻入り)です。
【境内点描】
まずは、「(試験に)落ちない」と評判の「雷井戸」から
◆雷井戸伝説
昔、この地域は落雷がとても多かったそうです。当社の境内に落雷した時、神主が雷を井戸に閉じ込めました。雷が泣きながら反省したので、神主は「二度と落ちるな」と念押しして雷を解放。その後は、この地域に落ちなくなった。との言い伝えです。
◆三島様の石橋
江戸時代、当社の横に吉原遊郭へと続く土手がありました。そこから当社に入る際に橋を使ったそうです。明治末期に土手がなくなり、橋の一部を境内に移設したとのことです。
◆社務所&授与所
◆授与所の額
額には「神符所」と揮毫されています。
【境内社】
◆火除稲荷社
御祭神:保食神
◆由緒
往古、武蔵国豊島郡金杉村のこの地に「御先(みさき)稲荷神社」が鎮座していました。徳川家が上野山内の火難方位除けのために勧請したと伝えられています。時が流れ、上野に寛永寺を建立するにあたって、当地が火除け地に定められました。
以来、火除稲荷と称し、三島神社の地主神でもあります。
by由緒板
【御朱印】
初穂料500円
以前は宮司さんが墨書していましたが、今は、書き手を雇用しています。
◇御朱印は何種類か用意されています。
境内社・火除稲荷大神の御朱印もあります。
【参拝ルート】
2022年 2月 8日
START=上野公園・黒門跡(=人工滝)~500m~東照宮・大鳥居~参道150m~①東照宮~230m~②花園稲荷神社&穴稲荷神社~(隣接)~③五條天神社~700m~④境 稲荷神社&弁慶鏡ヶ井戸~550m~台東区循環バス・水上音楽堂前バス停→(めぐりん東西ルート)→浅草駅前バス停→無料乗り継ぎ→(めぐりん北ルート:浅草回り)→今戸2丁目バス停~200m~⑤熱田神社~600m~⑥浅間神社~850m~鷲神社バス停→(めぐりん北ルート:根岸回り)→下谷3丁目バス停~60m~⑦三島神社 ~500m~東京メトロ日比谷線・入谷駅=GOAL
【編集後記】
◆河野氏のこと
河野氏は、承久の乱で後鳥羽上皇方につき、幕府軍に敗れました。敗軍の将は、本来なら打ち首です。しかし、北条時政の娘を母とした河野通久(=政子や小四郎の甥っ子)は助命され、河野家は生き延びました。通久の孫が通有です。
◆河野宮司さん
当社は、河野通有の子孫が代々、宮司を務めます。
筆者は、現・宮司さん(もちろん河野姓)とお話する機会に恵まれました。
お話を伺うと、当社を大胆に改築する計画をお持ちでした。その全体像は、虎ノ門・金刀比羅神社のようなインテリジェンス・ビルをイメージされているかのように聞こえてきました。
【注】写真掲載は、承諾をいただいております。(2017年撮影)
河野宮司さんは、テキパキとした「江戸っ子」な話しっぷりでした。下町生まれの筆者の会話波長とシンクロして、とても心地よいひとときを過ごすことができました。
ありがとうございました。(了)