船橋大神宮 

『延喜式』に記された社号

意冨比神社(おおひ)

 

 当社は、かつて ”意冨比神” を祀っていました。

しかし、今やこの神は、神社配布のリーフレットに祭神として明記されておりません。

◇鎮座地:千葉県船橋市宮本5-2-1

◇最寄駅:2か所

→大鳥居:京成線・大神宮下駅~170m

→西鳥居:JR総武線・船橋駅~1.0km

◇主祭神:天照皇大御神

◇御朱印:あり

 

                  

【表参道】

◆一之鳥居(南大鳥居)

~参道の路面をご覧ください。驚くほど清浄です。この近辺、100年前は海岸でした。

 

 

◆社号標

~延喜式内 意冨比神社 と刻まれています。

 

 

◆参道

~石畳の部分のみならず、土の部分もまた掃き清められています。

 

 

◆護国系の石碑

~明治期の戦争(日露戦争&日清戦争)に関する石碑。二之鳥居の手前、参道右手です。

 

 

◆祭器庫

~参道左手。護国石碑の向かい側です。

 

 

◆西鳥居

~境内の外、西側から表参道に途中合流できる入り口です。表参道、祭器庫の脇に出ます。

 

 

◆二之鳥居

~ヒノキの伊勢鳥居は、清潔さ&ぬくもりを放っています。また、右方向から伸びた松の枝が絶妙なバランスで笠木に被さります。

 

 

◆狛犬

~広大な境内に狛犬はこの1対のみ。あとは、神門内に獅子山があるだけです。(除・境内社)

 

 

◆参道風景

~神門が遠望できるこの辺り。眼前に広がる《静寂と清浄》は、美しさの極みを感じます。

 

 

◆藤棚

~参道左手、小規模ですが、藤棚があります。

 

 

◆社務所(神職通用口)

~手水舎の手前、参道左手にあります。玄関前の古木には注連縄が張られています。

 

 

◆手水舎

~「妻入り」となる手水舎。親しいブロガーさんが「屋根の向きを神門に同調させているのでは・・・」と推理していました。なるほど!同意します。

近づくと水が流れ出す、自動水栓です。水盤に刻まれた神紋は2つ。三つ巴と九曜紋です。

 

 

 

【社殿】

◆神門

昭和時代は、茅葺き屋根でした。今は、銅板葺きです。

鰹木は6本。千木は「内削ぎ」です。屋根にかかる青葉は桜。

*内削ぎとは、千木の先端を地面と平行にカットしています。ちなみに、外削ぎ=地面に対して垂直にカット。

本坪鈴の向こう側に扁額が掛けられていますが、文字がかすれてしまっています。

 

 

◆獅子山

~神門の中、拝殿前の斎庭に造成されている「獅子児鍛錬型」獅子山です。正式参拝もしくは正月三が日でしたら、間近で見ることができます。

 

 

◆神井

~神門内、拝殿に向かって右手に進むとあります。現在は、使用されておりません。

 

 

 

 【意冨比神社の誕生】 

①創始(=伝承)

~西暦110年:日本武尊が東国平定の途次、海上の舟に鏡を発見。戦勝と降雨を祈って、それを神鏡として祀りました。

 

②称号(=伝承)

~西暦123年:景行天皇から「意冨比神社(おおひ神社)の称号を拝領。

*そもそも、景行天皇は実在が疑われています。

 

③格式(=歴史)

~西暦874年:「従四位下」の神階を授かる。 972年「延喜式」神名帳に掲載。記載社号は、意冨比神社

 

④実態

~古代から太陽信仰と深い関係があったとされ、土地神として祀られてきた経緯があります。

 

 

◆拝殿

~千木は「内削ぎ」、鰹木は8本です。女神を祀っている場合、鰹木は偶数。男神の場合、鰹木は奇数。これが神明造の原則です。

 

 

◆玉垣

~玉垣に設置された出入口。云わば「玉垣西御門」です。正月は、開放されます。三が日は、神門から御垣内に入り、お参りを済ませたら、こちらから出る。そういった動線になります。

 

 

◆本殿

御祭神:天照皇大御神

~昭和時代には、相殿神が祀られていました。万幡豊秋津姫と天手力雄命の2柱です。しかし、今は消えています。

『延喜式・神名帳』記載社名の元になった意冨比神も表向きには祀られておりません。

 

 

◆仮殿

~位置関係は奥に向かって、神門→拝殿→本殿→仮殿。仮殿は、御垣内の最奥です。 

 

 この社殿、元は摂社「外宮」の本殿でした。

平成27年、皇大神宮・式年遷宮で内宮の由貴御倉を拝領。これを「外宮」の本殿としたため、旧・本殿はこちらに移築して仮殿としました。

(注)由貴御倉の「由貴」とは、清浄な・穢れのない、という意味です。

◎境内社・八雲神社の建て替えの際、素戔嗚尊をこちらの仮殿で祀りました。仮殿は、社殿の建て替え時、祭神の「仮住まい」として運用されています。

 

 

 

【天照大神が祭神となった理由】

①御厨(みくりや)の設立

~西暦1138年頃、この地に御厨が設立されました。御厨とは、伊勢神宮の荘園のことです。地名を冠して「夏見(なつみ)御厨」と呼ばれ、米や布などの供物を伊勢神宮に調進しました。

 

②神明宮の創建

~伊勢神宮の神領となれば、遥拝所が作られるのは、必然です。結果、神明宮(=祭神:天照皇大御神)の勧請へとアップ・グレードされていくのもまた必然。

 

③意冨比神社への合祀

~戦国時代になると、御厨が衰退します。 神明宮をレガシーにせず、現役として残すため、近隣の「意冨比神社」への合祀が決まります。

 

④合祀された神明宮がメインとなる

~神明宮合祀により、元の意冨比神が「客人神」化。合祀神が主祭神となるパターンです。以来、意冨比神社は、船橋大神宮として天照皇大御神を祭神とし、今日に至っています。

 

 

 

【境内点描】

◆社務所と受付所

~右手の小さな小屋が「受付所」です。御朱印はこちらで拝受できます。

 

 

◆社務所~上がり框

~なぜか、「平 経正の竹生島詣」の屏風絵が飾られています。経正が琵琶を弾いていたら、白龍が降りてきたという場面を描いています。これは、社務所玄関の引き戸を開けると、正面にあります。小物は、左から伊勢神宮の式年遷宮記念品、干支の置物で亥&戌。

 

 

◆臨時授与所

~通常、こちらは閉まっています。年末年始など、人手が見込まれるときだけ OPENします。

 

 

◆ご神水

~地下深くから汲み上げる手漕ぎの井戸は、お水取りが可能です。毎年、6月に井戸浚い&水質検査を行います。その後は、水質が落ち着くまで2か月ほど飲料不適期間になります。

 

 

◆神楽殿

~ふだんは、ご覧のように雨戸が閉まっています。

~神楽を演じる朝、神楽殿の雨戸が開きました。舞台奥の壁面の前には御幣。

 

 

◆土俵(奉納相撲)

~徳川家康が当宮に参詣・逗留した際、地元漁師の子らに相撲をとらせて、もてなしました。これは、「奉納相撲」として現在まで続いています。 *現在、土俵ノリ面は改修されています。

 

 

◆奇木

~クスノキ。長い年月をかけて、根は幹化し、幹はところどころに瘤と空洞を造っています。

 

 

◆東鳥居

~純白の神明系鳥居です。鳥居手前を右に進むと駐車場です。東鳥居の近くには、神楽殿、土俵、クスノキの奇木、トイレなどがあります。

 

 

◆吉野桜

~大鳥神社付近に、吉野の桜を移植しています。奥に大鳥神社の屋根が見えます。

 

 

 

【燈明台エリア】

◆燈明台

~明治13年(1880年)、境内の丘に建てられた民間灯台です。現在は使用されておりません。和洋折衷・三層構造の美しい造形で、三階部分は六角形に作られています。

 

 

◆燈明台2階

~燈明台は、お正月の三が日だけ「一般公開」されます。こちらは、2019年の元日に撮影しました。2階の随身像がある部屋です。

 

 

◆燈明台3階

~灯室です。2階から仰ぎ見ました。

 

 

◆客殿

~燈明台の裏手にひっそりと佇んでいます。

 

 

 

◆祖霊社

~宮司家の祖霊社です。

 

 

◆北門

~境内の最北部にある門です。境内図には鳥居のマークがありますが、実際は注連柱です。

~正月の三が日は確実に開きます。右手の高台に浅間神社の社殿を望めます。

 

 

◆境内案内図

 

 

◆古墳=覆宮塚

~燈明台が建っている高台は、「覆宮(おおいのみや)塚」という古墳である。と、『房総の古社』を著した菱沼 勇は断定しています。高さ7メートルほどの大きな円墳である、としています。被葬者は、このあたりの農民たちから首長と仰がれた人であろうと推測されています。

 覆宮(おおい宮)は、意冨比(おほひ)との関連を感じます。

 

 

 

【御朱印】

◆令和のご朱印

~御朱印は、経年劣化が進行しています。

 

 

 

【編集後記】

◆清浄

~船橋大神宮の境内は、清々しさに溢れた素晴らしい神域です。いつ訪れても徹底的に清掃されています。参道には落ち葉1枚落ちてない日が多く、清浄の極みを感じます。これを維持させている関係者の方々にこの場をお借りして、敬意を表したいと思います。いつも気持ち良くお参りさせていただき、ありがとうございます。

 

◆古代の空気

~船橋大神宮は、清浄さだけではありません。神門の前に立ち、拝殿を遥拝したとき、得も言われぬ空気を感じます。古代の空気をまとった、美しく端正な空間、とでも言いましょうか。船橋大神宮には、そういう神聖な空間が横たわっているような気がします。

 

◆船橋の地名発祥の地

~西大鳥居を出て、JR船橋駅方面に歩くと、海老川という河川があります。伝承によれば、船橋という地名の起りは、この川に由来します。ヤマトタケルが東征の途次、この川を渡ることができなかったとき、地元民が小舟を並べて橋の代りとして、向こう岸に送り届けた。これが、地名の由来です。今、川にかかる海老川橋の欄干には、龍にまたがった青銅製の女神像が設置されています。

 

◇今回、全体の半分をご紹介しました。残り半分は、次回記事にてご案内いたします。(続)