花組芝居「泉鏡花の夜叉が池」二子玉川セーヌ・フルリ2023.12.28-30

 
 
 
 
花組芝居

 

 

 

「泉鏡花の夜叉ケ池」
2023.12.28-30 セーヌ・フルリ
原作 泉鏡花
脚本・演出 加納幸和
配役
萩原晃=小林大介
山沢学円=桂憲一
百合=武市佳久
白雪姫=加納幸和
湯尾峠の万年姥=山下禎啓
白男の鯉七=押田健史
木の芽峠の山椿/権藤管八=横道毅
大蟹五郎/斎田初雄=永澤洋
黒和尚鯰入/伝吉=丸川敬之
鹿見宅膳=北沢洋
与十/穴隈鉱蔵=秋葉陽司
畑上嘉伝次=磯村智彦
 
 
◯前回の感想(2017/1月、ぼろぼん忌)

 

 

 
 

あらすじ

三国嶽のふもとの琴弾谷に、夜叉ヶ池の伝説の調査に来た山沢學円は、迷いこんだ池のほとりで美しい女性・百合と出会う。 百合と話すうち、物語を集める旅に出たまま行方不明になっていた親友・萩原晃が百合の夫として暮らしていたことを知る。夜叉ヶ池には竜神が封じ込められていて、一日に三度鐘を撞かなければ竜神が再び暴れて洪水を引き起こし村が流されてしまうため、ゆえあって鐘楼守をすることになったのだという。 

竜神・夜叉ケ池の白雪は恋しい剣ヶ峰の若様にあいたいがために鐘の誓いを破ろうとするが、仲睦まじいふたりの様子におとなしく諦める。

その頃、村はひどい日照りが続き、雨乞いの儀式のため村人達が百合をかどわかそうとしたところへ、夜叉ケ池を見に行っていた晃と學円が戻って来て説得を試みるが…。

 

 

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12.28夜の部所見。
今回の上演は3日間と短く、年末の予定をすり抜けてなんとか初日の夜に見られました。仕事納めの日でバタバタした中で小屋に着きましたが、始まるや芝居の世界にするりと誘われ、お池の怒涛に巻き込まれ、終わったときにはすっかり浮世のあれやこれやは洗い流してもらった心地でした。
鏡花作品の主人公達はいつも涼やかで爽やかで美しく、加納さんが少しそんな彼らを混ぜっ返しながらも本質の美しさはギュッと濃縮して見せてくれ、眩しい彼らの姿にはやはり最後は涙してしまうのです。
 
花組芝居にとっては劇団の初期から大切に再演を重ねてきた作品で、今回で5演目になるとのこと。
今回は前回のぼろぼん忌に続いて、劇団の稽古場でもあるスタジオ、セーヌ・フルリでの素かぶき様式での上演でした。
 
ちなみに、上演歴を確かめると、 
 
1991年 青山円形劇場 初演
1995年 青山円形劇場
2009年 青山円形劇場
2017年 セーヌ・フルリ
2023年 セーヌ・フルリ
(2003年、グローブ座での外部公演もあり)
 
となっていて、私は95年の再演から見ています。
(ちなみに、學円は佐藤誓さんが私の中では他に譲ることのない最高峰です…ほんとにほんとに大好き…)
 
青山円形劇場の軽いすり鉢型の構造が中央の釣鐘堂と池に沈んだ村というラストシーンの「絵」にこれ以上ないほどふさわしかったのですが、惜しくも青山円形劇場は閉場…。
以降はセーヌ・フルリでの上演で、完全な円形は無理でもほぼ円形に近い形に建て込み、前回も今回も中央に黒い台と釣鐘だけ、のシンプルな装置となっています。
加納さんの中にこの作品については確固たる絵があるのだな、といつも思います。
大きな道具も派手な衣装もなくても、そこには琴弾谷の美しい清水があり、大きな夜叉が池があり、百合と晃が暮らすお堂があり、最後はすべてを飲み込んだ池が残る。見える。
見る人それぞれの脳に委ねられる、素ネオかぶきの形が私はとても好きです。どこにでも行けるよね。
 
前回の上演は長く晃を演じてきた水下さんの追善公演でもあり(この作品については、銘打たなくとも追善の想いは常に皆さんの、私達の心の底にあるものだと思いますが)、物語の中の學円の晃と百合との惜別がそのまま水下さんとの惜別にも繋がり、とりわけ加納さん演じる白雪の道成寺には泣かされた思い出があります。
今回は追善ではありませんでしたが、セーヌ・フルリの壁一面に過去の上演時の舞台写真が貼り出され、どうしたって水下さんのことは思い出されたし、誓さんの學円、純米さんの百合、大井さんの大蟹五郎などなどの姿がよぎる…劇団で再演を重ねるというのはそうした、過去演じてきた役者達がそこに描き出した役や舞台を何重にも重ね合わせて見るということでもあり…それができるのはまた、長く追いかけてきた贔屓だけの特典でもあります。ある種、この重ね合わせもひとつの「歌舞伎」だよな、と思います。
 
今回の拵えは純然たる「素ネオかぶき」様式ではなく、多少、着物や小道具を入れてありました。
前回のぼろぼん忌よりプラスα、というところ。
あれ?と思ったのは「學円の洋装」だけが「異空間に入れなかった人(語り部)」として際立つ形だったのが、今回は百合、晃も、ひいさまから眷属達も衣装や小道具をつけていたこと(化粧はなし)でした。えらく今回は具体化されたんだなーと。
釣り鐘も前回は注連縄だったんですよね。
これが、よく言えばわかりやすさであり、一方でちょっと…受け手の知識や想像力が次第に欠如してきていることの証というか…そういうものを加納さんも肌で感じてらっしゃるのかもなあなどと思いました。
 
晃の衣装はこれまでの晃と異なる白絣に縞袴で「お坊ちゃん」が強調されていた印象。
もう公演が終わったので書いちゃいますが、最後に現れる博徒伝吉が着ていたのが過去の晃の衣装で、それをもじって、伝吉役の丸川さんが晃の台詞を登場して朗々と話す演出には大ウケしてしまいました。これは過去の演出を知らないとわからないことなので長い贔屓への茶目っ気あるサービスですね。
 
學円は、明治期の教師と言うより、喪服に見える黒ネクタイのスーツ姿で(おそらく前回と同じかと…)、それが現代的で今とつながる「繰り返しの追悼」であり、彼らの物語の語り部ということを強く感じられる拵えでした。
桂さんがそれをいわゆる「本願寺の坊主の學円」らしくピシッと着るのではなく、実にラフに自然に着ていて、晃とのやりとりも自然で本当に兄弟分のような、戯曲のイメージを超えた、桂憲一の學円でとても好きでした。
登場時、そしてラストシーンだけその空気がぴりりと硬くなって語り部の顔が強くなる。もしかして、この學円は何年も経ってここを訪れているのかもしれない、と思うほどに。
 
この「學円に物語ることを託す」感覚は、これまでで最も強かったです。村人達を説得する學円がかつていた生贄の乙女(つまりこれが白雪なわけですが)のことを語ったあとや、そして、 池の底に村を沈めたあと去るときに白雪がじいっと學円を見つめお辞儀をする姿が、強く印象に残っています。
もう、犠牲はいらない、と白雪が訴えているようでした。
 
大介さんの萩原はむっちりとした肉感で、舞台の上でのエネルギーがとても強かった。學円との強い関係性もですが、百合への確かな情愛を台詞ひとつひとつから感じました。
茨の道はおぶって通る、の2回繰り返すトーンが全く違うことにはっとさせられました。生きて通る道と、そうでない道と。
武市さんの百合も、儚さより肉感。消えそうな乙女というより、確かに生きているひと、でした。
ただ、大介さん、沈んだときに鎌をシュノーケルに見立てるのはやめてぇ〜ウルウルしてたのに吹き出してしまいました(笑)
 
まあ、花組芝居はこれぞ、ですよね。
どれほどシリアスな、真摯なときでもふっと笑える瞬間があって、耽溺を避ける、どこか客観を残す、そういうところが面白みでもあります。鏡花のことば達の中に、突然、「今」が紛れ込んできて私達のそばに急に近づいてきた!と思うや、またその麗しい世界にするりと戻っていく。
花組芝居の役者陣の鏡花の言葉の咀嚼度合…これは鏡花に限らず、擬古典や古典でもそうですが…にいつも感嘆します。くるくると今と昔を渡り歩く役者達。
 
閑話休題。
 
眷属達は前回からは姥が山下さんに変わり(と言っても過去はずっと山下さんで、谷やんに代替わりしたはずが戻ってきた!感)、大蟹五郎が永澤さんに変わった以外は、鯉七・和尚・椿は変わらず。
特に椿は純米さんのあとを受け継いだ横道さんの持ち役で、なんだかいつも横道さんのラ・ラ・ルーを聴くとほっとします。
体格的には大きいのに乙女で純朴でかわいいんですよ、なんか。
 
今回は前の列に座ったので眷属に混ぜていただき、鐘も壊していいよ!と大蟹五郎に誘われて、楽しうございました。
五郎の鋏に手を入れようとしたら、びっしゃびしゃだからやめたほうが!と止められたのには大ウケしてしまいました(ほんとにびしょびしょでした)。永澤さんの五郎はかわいい五郎だったなあ。
押田さんの鯉七は、鯉の姿からあやかしの姿に戻るときは前回も確かブレイクダンスだった気がしますが、今回もキレよく。しかし一通り大騒ぎしたあと、水をかなりたっぷり飲んでいて、年齢を重ねた感が…(前回も休んでたと思うんですが、リアリティが増した感)。
 
村人達が実はとても私には面白かった…。
斎田初雄は嫌味なインテリバカ、慇懃無礼の代名詞みたいな役なのに、永澤さんがそれをただの慇懃無礼にしなかったというか、ものすごくキュートな、インテリじゃない(笑)おバカさんにしていて、これは永澤さんが女形が多いからかもしれません。永澤さんって「賢くない女の子」がうまいよなあといつも思うので、それが映えた感じでした。
磯村さんの村長がまたまあ北沢さんにいじられて…村長のカウントダウンライブ、盛況でしたでしょうか(笑) 
鹿見宅膳は北沢さんで、持ち味ですよね、どうも愛らしさが残る。役としては宅膳、大嫌いなんですけど、北沢さんがやることで生々しさが消えた感じがしました。
 
秋葉さんは夏の「忠臣蔵」では私のMVPだったのですが、今回の与十と穴隈鉱蔵の二役もがらりと違ってよかった。
特に、与十! 「よじゅうでなくて五十」の「ニートのおっさん」がなんかもうたまらずツボりまして。
百合と晃のことをあーだこーだ話すときの仄暗さにもニートのリアリティがありました。いやー、アホの子じゃない解釈、ありすぎました。いやー、とてもキモかった。
 
山下さんの姥と加納さんの白雪のやりとりはなんだか懐かしく、ゆかしく。
ここだけ動きと台詞が舞のような、引き締める感覚が強くて聴き応え。
加納さんの白雪は化粧なし、お衣装だけ腰に巻く形でしたが、愛らしいことこのうえなかったです。
白雪の「道成寺」には毎回、泣いてしまうのですが、今回は先述の學円を見つめる「目」にもっとも泣かされました…。
 
鐘の落とされたあと、洪水のなかおぶおぶする村人達を見ながら高らかに笑う白雪の妖としての強さと、「子守唄を歌いましょうね」と百合に囁くかつての自分と重ね合わせたやさしさと、そこからさらにきっと幾年も過ごして辿り着いたであろう達観を感じるラストシーンと。
最後にくるりと踵を返して去る學円は直後であるだけではなく、何年も経って偲びに来たかのようにも見え、強いライトを浴びて祈る學円の姿には「物語」(考えればそもそも彼が集めていたものである)、晃と百合と白雪に託された「想い」をこれからも伝えていかねばいけないという宿命と覚悟を見るようでした。
いつも大好きなラストシーンなんですが、今回も美しいラストシーンでした。
 

 

 

今回の上演でも過去の再演同様、客席を巻き込む演出もふんだんに。

一緒に踊ったり、鐘を落とそうとしたり(笑)、歌ったり、記念撮影したり!

こういう「緩」の部分と、ラストシーンに向けての「急」の部分と、笑ったり泣いたり、気持ちの行ったり来たりが花組芝居の舞台ではとても強く、心をたくさん揺さぶられる時間です。

今年も1年、たくさんの「揺さぶり」をありがとうございました。

 

 

 

古典の再構築、名作の再演。花組芝居の2023年も充実!でした。
2024年は6月・11月の公演が発表されていますが、今年はなんと新作2本!
しかも11月は劇団出身の堀越涼さんの新作を加納さんが演出という、次世代とのコネクト。
花組の新作ときたらとにかくスリリング、刺激的ですからねえ。
今年も非常に楽しみです。