ある年末の酷い吹雪が吹く夜のこと。
東京の市街地の一角で、薄い布でできたコート一枚を羽織っただけの少女がマッチを売っていた。
「……マッチ、マッチはいりませんか?」
道行く人にそう声を掛けるが、年の瀬の忙しさからか、誰も少女の声に答えない。
少女は困った。
このマッチが売れなければ、家に帰ることもできない。
しっかりと全部売り切らなければ、父に怒られるからだ。
「マッチ、マッチは……」
少女は声を掛け続ける。
しかし、誰も答えない。
このままだと、一生帰れない。
少女の頭の中に、そんな考えがよぎり、彼女の小さな心は、その考えからできた不安でいっぱいになった。
そしてそれは涙となって溢れた。
彼女の涙は足元に降り積もった雪を溶かしていく。
だが街の人々は、それでも彼女に目もくれなかった。
……一人を除いては。
「……大丈夫、君?」
少女が涙を拭き、顔を上げると、そこには顔のほとんどをマスクで隠した女性が立っていた。
二十代前半くらいで、別に特別可愛くもなければ、特徴もあまりない、どこにでもいそうな女性だ。
彼女の顔に似合わぬ、大きな男性用のマスクを着けている以外は。
少女は口を開き、大丈夫です、と言おうとした。
しかし、寒さのせいからか、どれだけ声を出そうとしても白い息が漏れるだけだった。
その様子を見た女性は、自分の着ていた分厚いコートを脱ぎ、それを少女に羽織らせた。
そしてズボンの両ポケットを探り、片方から真っ白な飾り気のないハンカチを取り出す。
「大丈夫じゃなさそうだね。とりあえずこれ着て、このハンカチで涙拭いて、ちょっとおいで」
少女は素直にそれに従い、彼女の跡ををついて行った。
普通なら知らない人について行ってはいけない、としっかりと知っているのでそんなことはしない。
ただ、この女性は悪い人じゃない。
なぜかそんなことを感じたからである。
彼女の様子をしっかりと気にしながら。
そしてたどり着いた喫茶店のドアを開け、少女を手招きした。
カウンター座った女性の隣に、少女も腰掛ける。
喫茶店のマスターは、明らかにサイズが大きいコートを着た少女とこれまた明らかに顔よりも大きなマスクを付けた女性が隣り合って座っているという、日常においてはあまりない様子を一瞥するも、顔色一つ変えずお湯を沸かし始めた。
実は、女性はこの喫茶店の常連客で、いつもマスクを着けているのをマスターは知っており、少女のことも、ぱっとみるだけで大体のことの予想できたからだ。
ちょっとだけお節介な女性は少女に優しい声で質問をする。
「……君、何で今時マッチを売ってたの?」
少女は先程まで凍りかけていた口をゆっくりと動かす。
「パパに、言われた、から」
今度は何とか声が出た。
とても小さく、お湯の沸く音にかき消されそうな声だったが、澄んでいる綺麗な声だったので、女性の耳にはすんなりと届いた。
女性は質問を続ける。
「そのパパってどこにいるの? おうち?」
少女は頭に着いた雪を静かに払いながら答える。
「うん。おうちにいるの」
「じゃあ、そのおうちはどこ?」
「おうちは…………おうちは…………」
少女の雪を払っていた手が止まる。
そのまま少女は酸欠の金魚の様に、口をパクパクさせるだけで、何も話さなくなってしまった。
思い出せないのか。
それとも、思い出したくないのか。
どっちにしろ、分からないのなら一般人の女性には何も出来ない。
警察に頼むしか手はなさそうだ。
「マスター、警察に連絡してもらえませんか?」
手を小さく上げて、マスターにそう声を掛ける。
だが、少女はその言葉を聞いたとたんに動き始めた。
「警察は、嫌! お願いします。それだけは、やめて。やめて、ください……」
目の色を変え、お願いします、とやめてくださいを交互に繰り返している。
女性もただならぬその様子に動揺し、おどおどするしかなかった。
ただ、その様子を眺めていたマスターだけは冷静だった。
落ち着いた様子でコップにお湯を注ぎ、スプーンで中身をさっと混ぜ、少女の前に差し出す。
「とりあえず、これを飲んで落ち着いてください。警察に連絡はしませんから」
差し出されたコップの中には、茶色い液体が甘い匂いを出して泡を浮かべていた。
「私のアレンジココアです。普通のココアよりも甘いですよ。しかもカロリーオフです。ご安心を」
焦っていた少女も、ココアの匂いにつられて少し落ち着いたようで、申し訳なさそうに手を膝に置き、うつむいていた。
それと同時に女性も落ち着きを取り戻し、マスターに小さく頭をさげる。
マスターはそれを見て、何も言わず、ただ少し優しい微笑みを見せた。
女性はいったん安心するも、すぐにそんな安心をしている場合ではないと気づいた。
この少女をどうするか。
その問題をどうすればいいのかを考えないといけないからだ。
この少女はまず、家の場所を思い出せない、もしくは思い出したくないみたいなので、今のところ、家に帰すことはまずできない。
そして警察にも行きたくないそうなので、家の場所を調べてもらったり、保護してもらうことも難しそうだ。
無理やり連れて行くという手も頭に浮かんだがが、幼い少女にそんなことをするのは可哀そうで、その案はすぐに消去した。
だったら、どうするべきか。
正直、頭の中で二つの案がまとまりつつあったが、それには双方とも大きな問題があった。
だめもとで、女性はそのうち一つをマスターに提案してみることにした。
「あの、マスター」
「はい、何でしょうか?」
ティーカップを磨いていたマスターが顔を上げる。
「この子のことなんですけど…………マスターのところで預かれませんか?」
「無理ですね」
即答。
コンマ何秒でしか測れないようなタイムでマスターは答えた。
女性は頭を抱え、少しのけぞる。
「ですよねー」
「はい。私は男ですので、色々と問題があります……。ただ、あなたなら……」
マスターはそこで口ごもる。
彼が言わんとしていることが、女性にはわかった。
しかし、それにもまた大きな問題があった。
マスターもそれを知っていて、その問題に引っかかったため、口ごもったのだ。
女性は少し考えていた。
しばらく経ち、女性は溜息を大きく一回吐いた。
覚悟を決めたのだ。
女性は、ココアに少し口を付けていた少女の方を向き、彼女の頭に優しく手を置いた。
「……ちょっと、見ててね」
女性はゆっくりとマスクを外していく。
頭の上にクエスチョンマークを浮かべている少女だったが、女性の素顔を見て、顔に驚きの表情を見せた。
その女性の口が、耳元まで裂けるように広がっていたのだ。
都市伝説である「口裂け女」のように。
「……ごめん。やっぱり怖いよね……」
女性は少女の反応を見て、ぼそりと呟くと、マスターの方へと向き直った。
「やっぱり、私だと無理みたいです。マスターのところで何とか……」
「あの」
女性の話を少女が遮る。
驚いて女性が少女の方を向くと、ゆっくりと少女は女性に手を伸ばしているところだった。
そのまま少女は小さな手で女性の服を掴み、その逆の手で女性の頬に触れた。
そして、小さな声を発する。
「怖く、ないです。ちょっと周りに人と違うから、びっくりしただけです。とても、大きくて、可愛らしい口で、いいと思います……」
「……えっ?」
驚きのあまり、女性は声を漏らす。
少女が本心からそう言ったのか、警察に行きたくない一心で無理にそういったのか。
彼女には分からなかった。
しかし、そう言ってもらえて、少なからず女性は嬉しい気持ちになった。
そしてもう一度、今度は笑顔でマスターの方を向く。
「やっぱり、家で預かることにしますね」
マスターは再度優しい笑みを浮かべ、うなずいた。
「ええ、了解しました。多少なら、私にも手伝えることがあると思いますので、何かありましたら何なりと……」
女性は少女の方へ向き直り、目線を少女に合わせ、少し微笑んだ。
「君も、それでいいかな?」
少女は笑顔で、元気に二、三回連続してうなずく。
その様子は、はたから見れば、親子のようにも見えた。
マッチ売りの幼い少女と、見た目は醜いが心は優しい口裂け女の生活。
どう転がって行くか分からないものだが、そんな二人の生活に幸せな未来が訪れるのを祈るかのように、
吹雪は勢いを弱め、街灯は柔らかい光で街を照らし、暖炉は優しく彼女らを温めている。
そして、少女の頬にあった涙の痕は、もう乾いて消えていた。
Fin.