どうも、JK69ですニコニコ
皆さま、いつもありがとうございます音譜

 秋と言えば芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋と言いますよねキョロキョロ
今年はコロナの影響でスポーツの秋は難しいかもしれませんねショボーン
外食と言う点で考えれば食欲の秋も厳しそうです宇宙人くん
そして芸術も演劇やライブと言う点で考えれば厳しいですショボーン

 そういえば菅さんをリーダーとする新内閣が誕生しましたね照れ
たぶんそんなに長く続かないように思いますが、今は世界的に非常事態なので少しでもプラスになるような行政を期待したいです。

 あとはまた芸能界から自殺された方が出てしまいました。
今年、なんだか多過ぎませんかはてなマーク
世の中には死にたいと思うようなことが沢山あります。
自分は毎日、何年間もそう思い続けてきました。
そういう思いを過去にされた方も多いと思います。
「だから君も頑張って」と言うつもりはありません。
それは今まさに「死のうとしている人」には他人事だからです。
それでも「自殺はいけない」と自分が思うのはなぜかというと、単純な話。
人が死ねば悲しいからです。

 自殺を「個人の自由」として尊重することは出来ません。
もしも自分の家族や、友人、恋人、子供が自ら命を絶ったとしたら、それも「個人の自由だから仕方ない」と割り切れるのでしょうか。
自分は、よく知らない他人なら「死んでもいい」とも思えません。
自分にとっては他人でも、他の誰かにとっては友人であり、家族だからです。
その胸の内を思うと、やはり自殺を容認することは出来ません。

 以前、クラスメイトが交通事故で亡くなりました。
事故の衝撃で顔の半分は見るに堪えないほど損傷してしまっていたそうです。
数人の友人とお通夜に行きましたが、ご遺族のお母様とお姉様がずっと泣き叫んでいました。
聴いているこちらの方が胸が痛くなるくらい「慟哭」されていました。
その夜、人が死ぬというのはそう言うことなのだと感じました。
故人となったクラスメイトは自殺ではありません。
未成年で免許を取ったばかりの人がアルコールが入った状態で運転していて、事故を起こしたそうです。
客観的に見れば彼らに非がある事です。
それでも家族の心情と言うのは言葉にしがたい、推し量れないほどの悲しみがあったのだと思います。

 苦しいとか、辛いとか、寂しいとか、愛されてないとか、報われないとか。
何が原因で人が孤独を感じるのかと言えば「自分にとって大事な人に何かを求めた結果、希望通りの対応が得られなかった時に孤独を感じる」のが人間です。
つまりは「最初から人に過剰な期待をしなければ楽」なんです。
期待をした結果、傷ついて自殺するほど自分を追い詰めてしまうくらいなら、最初から期待しなければいい。
その環境から逃げ出せばいい。
そういう形で自己防衛して生きている方も大勢いらっしゃると思います。
しかし、精神的に狭い視野になっている自殺志願者にはそういう発想がないんですねショボーン
これはDVの問題も同じで「暴力を振るわれているなら逃げればいいし、別れればいいのに別れない」のは、心の視野が狭くなっているから。
「〇〇でなければならない」という強いこだわりでがんじがらめになっているからです。
誰もが1+1が2であることを算数で習ったと思います。
これは「答えは2口笛」とすぐに答えられるような簡単な問題です。
でも、その答えが分からなくなるほどの精神状態になっている人を果たして「冷静な判断力のある状態」と呼べるでしょうかはてなマーク
つまり、自ら死を望む精神状態というのはその人本来の状態ではなく、自分自身で考え選択しているようで思考の迷路にはまって抜け出せなくなっている混乱状態という事なのです。

仮にそれがその人本来の健全な精神状態であれば「自殺したい」という考え方に対して、自分はある程度理解を示すかもしれません。
でも「死ねば楽になる」という考えはその人の本当に望む答えなのでしょうかはてなマーク
もし「異常ではない。自分は正常だし冷静だムキー」と主張されるのなら、その方は人生のもっと早い段階で自ら命を絶っていなければおかしいのです。
大人になり、ある程度年齢を重ねて自殺をするのはなぜか。
「将来に絶望して」
ということもあるでしょうが、分かりもしない先の事を想像して悲観的になり、死のうとしている時点で正常な判断が出来ているとは思えません。
将来が幸せか不幸かというのはネガティブとかポジティブとかいう思考以前に、確率の問題なのです。

 残念なことに最近は「死へのイメージ」がトランプのジョーカーみたいに「万能の逃げ道」的な幻想に通じている気がしてなりません。
個人の心がないがしろにされ、他人への関心より自分の欲求にばかり目が向き、人を信じたいのに裏切られたり、愛されたいのに愛されなかったり。
下心のない人の優しさや温もりを感じる機会がとても少なくなっているように思います。
これは、なんでもかんでも「自分の損得」を真っ先に考えて行動する人間が増えすぎたせいではないでしょうか。
だから人に助けを求めたり、信用するのが難しくなり「孤独だ」とか「自分は理解されない」と感じる事が多くなっているのかなと。

 今の世の中で生きるために必要なのは「健全な精神」ではないんですね。
「泥水の中、息を詰まらせながらも泳ぎ切る魚の精神」です。
どうしてこんな世の中になったのでしょうねキョロキョロ
それでも自殺を「その人の自由」だと考える方がいるなら、その方は自分自身の命を軽んじて生きているのだと思います。
大切にされたいと願うなら、誰かを大切にすること。
愛されたいと願うなら、誰かを愛することです。
想像力を働かせて、相手の気持ちになって、思いやることです。
不干渉を決め込めば傷は少なくて済みますが、そんな自分を好きになれる人が果たしてどれくらいいるのかは謎です。
「情けは人の為ならず」という言葉があるように、人を思いやるのはそれだけで自分自身の為にもなるからです。
物やお金、立場、建前でそれをやる人は、本当に困った時にいなくなる薄情な人です。
仮に自分が損をしてでも「誰かのために熊あたま」と動ける気持ちが、真の思いやりだと思います。

人を愛するという事が、自分を愛するという事に繋がり、自分も相手も大事にしようと思うことに繋がります。
人を心から愛することのない人は、本当の意味で自分を大事にすることが出来ません。
自分と他人は異なる存在ですがアプローチに関しては表裏一体です。
自分を大切にできない人は人を大切にも出来ないとはよく言われますが、人間は主観でしか物事を考えられないので主観の根本である自分を大事にできないなら、その向こう側の客観的視野において他人を大事にすることも出来ないという意味と解釈しています。
つまり薄情な人と言うのは自分に対しても薄情であり、愛情深い人と言うのは自分自身に対しても愛情深い人なんですね。
もしかしたら誰に対しても物凄く優しい人というのは、そんな優しさを一番求めている人なのかも知れません。
だけど「自分はこんなに周りに優しくしているのに、周りは自分に優しくしてくれない」と感じてしまってはいけません。
見返りを求めて何かをすると、それがどんなに良いことだったとしても愚痴や不満になるからです。
そういう意味でも「自分の気持ち、考えは他人には半分も伝わらないもの」というあきらめの気持ちが大事だと思っています。
今の時代の最強はそういう細かい心の機微を深く考えず、マイペースに生きている人ですけどねあせる
そういう方も自分で気づかない内に鬱になっていたりするので、自分なりに分析して考えてみる必要はあるように思います。



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