英語だいぶ話せるようになってきた。

 

 

英語話せる、というのは自分の体感(主観)なので

備忘録的に書いておく。

 

 

 

1、話の最後にジョークや何かで「軽く」返せるか。

 

 

2、何かの話題に対して「イチイチ毎度毎度」

自分なりの意見を返せるか。

(自分のこだわりに固執するのではなく

あくまで相手の話題に乗っかる材料としての意見)

 

 

3、話さないとしても、微笑みやウインクで

「何かしら」反応する。

(無反応はやはり感じが悪くなってしまうであろう)

 

 

↑これらの項目を行う際に、本音が含まれていること必須。

 

 

これは会話が詰まってエネルギーが滞る気持ち悪さがあった経験と比較して(吐血)、

エネルギーが流れてスッとした経験から見出したものです!!!!

 

 

 

はい、では。

ここまでは来ました、と。

近い内容は別記事で書いていると思われます。

 

 

 

 

じゃああと何が足を引っ張っていたかというと、、、

 

罪悪感でした。

 

 

今、自分のチームは自分+仕事のパートナーと

2人体制なんです。

 


パートナーはスペイン語圏から来ていて、

英語を勉強中なんです。

でも自分より会社の在籍期間は長いです。

 

 

彼女は英語への苦手意識がある手前、

 

 

僕が英語をベラベラ喋っちゃいけない

みたいに思っていたんです。(なんでやねん)



それで他の人とどんどん仲良くなっちゃいけない

と思っていたんです。(なんでやねん)

 

 

普段、彼女に配慮してブロークンイングリッシュを

使っているんですね。


コミュニケーションの便宜上、

あえて使っているんだ

と明確な意識があればいいのですが、

 

 

自分の

「英語まだまだダメな私、

ちょっとひいてる私、

私外人なんで優しくしてよね」

のセルフイメージと溶け合って

 

 

いつのまにか

 

「こっち側(英語がネイティブではない外国人)」と

「あっち側(英語関係なくノビノビとやっている人たち)」


というように人をジャッジするフィルターが形成されていました。

 

 

あっち側って呼ぶこと自体被害者意識。

 

 

多分、被害者でいた方が楽なんだと思います。

決めないでいいから。

言われたことだけやってりゃいいみたいな。

リスクは自分でない誰かがとるからいいや、

みたいな。

ずるい。


 

そういえば

小、中学校の部活で学年があがると

みんな平等の扱いから

レギュラー争いが始まるじゃないですか。



それでものすごい不安感になったのを覚えています。

 

 

いつもの練習相手が選抜で選ばれて、

自分が取り残されていく焦りがものすごいあった。

 

 

万年練習生でいい。平和にやっていたかったのに。

試合で勝ち負け、結果とか見たくない。

 

 

きっと(予想です)、

幼い頃に父との不和から母親と離れて暮らすことになったことがきっかけだと思います。

安心への枯渇。

何も起こって欲しくない願望。

身体で憶えています。

 

 

だから、現在もちょっとした変化で不安になる。

 

 

でもいい大人がそれではいかん!と進もうとするからアクセル(エゴ)とブレーキ(身体レベルでの防御反応)が同時にかかっている。←これはまた別記事で書きます。

 

 

それが現在まで糸を引いているというね。

まあ人間みんな何かしらあるよね。

 

 

そういうトラウマというか、人生の影みたいなことを

バネにして成長していくことが人間の美しさだと思うんだけど、

 

 

その闇を見ないようにして

(見えない時もあるけど)、

何かで埋めていくのはキツいよねと。

 

 

恋人ぉ〜とか、ともだちが〜、とかわかりやすいのは論外として

 

 

「私は人に認められるような、

ポジティブに受け取られるようなことをやってる

自分に酔ってしまいそうなことをしているから

安心している〜(無自覚)」

みたいなことってやってたなぁみたいな。

自分なんだが!!!

 

 

まずは、自分は

「実はこういうことがあってね、こういうことを思ったんだよね」と言葉にできる、

自分のストーリーを語れる、

話せる状態である自分をちょっとでもね。

 

 

3歩進んで2.99歩下がってもいいから作ること。

 

 

そこから始まるんだなって思っています。

 

 

これを精神的な成長というのか?

 

 

と同時に、

今の仕事のパートナーに失礼だなと思いました。