ビーイングアーティストの中で、俺が最も好きだったのが「T-BOLAN」。あれだけ夢中になっていたのに、今ではあまり覚えてないのが自分でも悔しかったりしますが、とりあえず記憶しているだけでも紹介したいと思います。間違ったことを書いてたらごめんなさい。
 

 

 理科の教員免許を持っている森友さんは、教師の道へ進まず、自分のやりたい音楽への道を歩み始める。そんな中、青木和義さん(Dr)と出会い「プリズナー」を結成して活動を開始。オーディションによりビーイング事務所へ在籍することになる。


 

「早尻翔介」という名前で森友さんが歌っている、BOOWYの「IMAGE DOWN」。BOOWYは最初、このビーイングに所属していましたが、思うような活動を許してくれないためビーイングを離脱。ところがその数年後、東京ドームでライブし、日本中にバンドブームを巻き起こした、とんでもないビックバンドとなった。その悔しさのせいなのか、氷室さんと似たようなビジュアルと歌声に、芸名までそっくりなのを付けられた森友さんは当時、どう思っていたのだろうか。

 

 

 


 

 バンド名を「BOLAN」に変更して活動するも、音楽性の違いにより森友さんは脱退する。森友さんはその後、別のバンドを転々と渡り歩くが馴染めず、次第に森友さん自身も音楽への興味が薄らいでいた。それを見ていたビーイング事務所社長:長戸大幸さんは、何とか森友さんを復活させようと、いろんなアーティストのコーラスに森友さんを参加させる。


 

「離したくはない」
セカンドシングル曲で、1年以上もベスト100位以内にいた隠れた名曲。この当時の森友さんを初めて見た時、氷室さんに似てるなと思った。ちなみにシングルとアルバムでは若干歌詞が違っているのも興味深い。

 

 


 

 事務所社長の気遣いに刺激され、森友さんはもう一度音楽活動を再開しようと決意するのだが、ソロデビューを考えていた事務所側に対し、森友さん本人はバンドデビューにこだわっていた。そこで森友さんは再び青木さんと組む道を選んだのである。実は「BOLAN」自身も森友さん脱退後、度重なるメンバー脱退が起こってしまい、活動中止を余儀なくされていた。


 

 青木さんと再び手を組んだ森友さんは、バンド友人であった五味孝氏さん(G)、上野博文さん(B)をメンバーに加え「T-BOLAN」を結成する。バンド名の由来は「T-REXのマークボランの存在に憧れていた」ことによる。


 

「Heart of gold」
先程紹介した「離したくはない」と両A面シングル曲。華麗なイントロのシンセがカッコいいし、サビのメロと歌詞もいい。作曲は前回紹介した川島だりあさんが手がけている。

 

 


 

 地盤固めも出来つつあったこの頃、いよいよメジャーデビューへと道が開いていくのだが、ここでもまた事務所側と問題が起きてしまう。それは事務所側が彼らのデビューシングルとして、同事務所の川島だりあさん(この数年後、FEEL SO BADのボーカリストとなる)が手がけた曲を提案してきたからだった。
 これまで自分たちの曲は自分の手で作っていたのに、いざデビューしようとしたら他人の曲を歌えという事務所方針に納得出来るハズがなかった。しかし結果的にはメンバーが事務所の意見をのみ「悲しみが痛いよ」でデビューが決定する。


 

 91年12月、セカンドシングル「離したくはない/Heart Of Gold」を発売。この曲は有線リクエストにより火がつき、発売から約1年間、ずっとベスト100以内にランクインし続けていた。俺の記憶では「両A面シングル」という位置づけだったと思うが、彼らの名バラード曲として今も歴史に名を刻んでいる。


 

「JUST ILLUSION」
 作詞が高樹沙耶さん、作曲が事務所の先輩である織田哲郎さんという、ちょっと意外なコンビで作られてたサードシングル。そのキッカケは、とある企画にて森友さんと女優の高樹沙耶さんが対談をしたとき、高樹さんから「私は今、作詞にハマっている」とのことで、作詞を依頼したのが始まりだと言われている。
 (2016年補足、作詞したその高樹沙耶さんが麻薬で逮捕されるなんて・・)

 

 


 

 彼らが最も頂点を極めていたのが92年9月に発売された「じれったい愛」から、「BYE FOR NOW」「おさえきれないこの気持ち」、そして93年3月の「すれ違いの純情」ぐらいだと思う。特にこの頃は、地方でライブをやった後に深夜便で東京へ戻るや即レコーディングしていたというから、かなりのハードスケジュールをこなしていたといえる。ただでさえ忙しいのに1つの楽曲に対し機材を変えて録ってみたり、キーやテンポを変えて録ってみたりと1曲に対して数テイクのデモが存在していたという。


 

 CDライナノーツにも記載しているけど、森友さんは「音に自然と身体が反応する」という理由から、レコーディング用の固定マイクではなく、ハンドマイクで歌入れをしていた。そのハンドマイクも数種類準備し、歌っているときにマイクの握る音が出ないようスポンジを巻いてまで歌入れをしていたとから、楽曲の完成度の徹底ぶりが伺える。



 

 当初はパイオニアLDCの別会社として設立したロックイットレコードに所属。しかしビーイングアーティストが次々にヒットすると、事務所は独自のレコード会社を設立。後半はビーイングが設立した「ZAIN RECORD」に所属する。


 

 95年3月のライブに、ドクターストップを振り切りライブを強行。しかしその後のライブ活動を一切しなくなってしまう。その後はシングルのみ発売。ラジオのカウントダウン番組では「彼らは今アルバム用のデモを録っている」という解説をよくしていたが、結局、そのアルバムは日の目を見ることはなく、そのまま彼らは解散をしてしまう(2017年現在、また復活してくれたのが嬉しい)。


 

 俺がT-BOLANを知ったのは本当にたまたまだった。 ある日のMステを見ていたら、タモリさんの後ろに革ジャン着た、いかにもロックミュージシャンです!みたいな(笑)格好した4人組が座ってて、そのうち一人は髪を少しフワっと立たせた人だった。 

 

「氷室みたいでメッチャカッコイイやん!」と思った。だけどどう見てもヒムロックじゃないし…誰だアイツら」 なんて思っていたら、暫くしてその人たちが「T-BOLAN」というバンドだと知る。最初はやはりボーカルの森友さんは氷室さんとダブって見えましたね。声質も似てるしルックスもいいし。

 

「遠い日のリフレイン」
アコースティックアルバムに入っていた曲。「見覚えのある景色の中にアイツの姿探した」という、俺みたいな女々しい奴にはピタリと来てしまう歌詞。